【ネタバレ注意】「μ'sがスクールアイドルであることにこだわる理由」について考える回
2015年も始まって間もない頃、このような記事をtogetterに投稿した。
【ラブライブ!】矢澤にこは、女子高生ブランドの威光に頼らなくても人気を維持できるか?
上記の記事は、今年の初めにTwitter上でウダウダとつぶやいたひとり雑談をまとめたものである。今になって読み返すと、散漫にして冗長で底が浅く、読むに堪えない内容である。
この時は「サンシャイン」の企画が上がってくるとは夢にも思わなかったので、結局は的外れな内容になってしまったものの、それでも的外れな結果になることは織り込み済みで、最後に「No brand girls」とか出してゴマかしながら、適当かつ強引にオチをつけている(笑)
仮に、矢澤にこは大丈夫だったとしても、コンテンツとしての「ラブライブ!」は、結局は「女子高生ブランドの威光」に頼る結果となってしまった。
ここはやはり「けいおん!」と同じ轍を踏むことを非常に警戒したのだろうか?
社会現象までになるくらいの大当たりのコンテンツが登場するのは10年に一度あればいい方かも知れない。それは作り手側にも予測が難しいことだろう。思ったようになるとは限らないこともいろいろとあるだろう。
そういうわけで、大ヒットしたコンテンツにはできるだけ存続してほしい。
作り手側にとっても、それが人情だろう。
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本題に入ろう。
「μ'sがスクールアイドルであることにこだわる理由」について考えた場合、
(1)アイドルアニメ市場における「ラブライブ!」の位置付け
(2)「ラブライブ!」におけるμ'sの位置付け
この両方からアプローチする必要があるだろう。
作品の物語世界のみに頼って、この「お題」の検証を試みようとすれば、きっとどこか腑に落ちない、どこか納得のいかない、中途半端な結果しか導き出せないはずである。
(1)アイドルアニメ市場における「ラブライブ!」の位置付け
アイドルをネタにしたアニメといえば、「アイドルマスター」「アイカツ」「ラブライブ!」「WUG」「プリパラ」など、個人的に思いつくのはそれくらいである。
実は「ラブライブ!」と「プリパラ」は個人的に大好きだったりして、そっちの方に心的エネルギーを傾けてしまった結果、あとの3作品についてはほとんど無知だったりする(苦笑)
ところで、今年の夏アニメでは『ミリオンドール』というのが放映されていて、OPの作画クオリティがある意味凄まじく、「あれはきっと主題歌の方を逆説的に引き立たせるための戦略的な意図があるに違いない」と独り合点するのであった。。。
箕面市出身の声優・渡部優衣が博多弁のセリフをしゃべっていた。かわいい❤(左の子の役)
アニメ「ミリオンドール」は、おそらく低予算のプロジェクトで、企画段階でキャスティングや楽曲の方でがんばったのはいいものの、そのために作画の方にまで十分に手が回らなくなってしまったのだろうか、そういうふうに解釈してしまうと、劇中に、どこからともなく、なんとも言い知れぬ、もののあはれな空気が漂ってきて、そういうところで惹かれてしまうような貴重な作品である(?!)
『プリパラ』は前作の「プリティーリズム」シリーズの頃と比べると、視聴者からより好評を得ているように見える。
ここでも、渡部優衣が白玉みかん役(下の画像の子)として活躍している。かわいい❤
『プリパラ』では、招待制の会員制である、ある意味、閉鎖的で選民的とも言える「プリパラ空間」を敢えて作り出すことによって・・・そういえば、現在ニコニコチャンネルでは『宇宙刑事シャイダー』が配信されていて、どういうわけか、そこはかとない期待をもって毎回観てしまうのだが、悪の不思議組織フーマの最高幹部である神官ポーが不思議時空を発生させることによって、「不思議獣は不思議時空では四倍のパワーを持つことができるのだ!」
・・・みたいな感じになったのかも知れない!? 自分の土俵を持てることは大切だ。
話が脱線している感があるが、つまり何が言いたいかというと、題材が類似するコンテンツ間では、他者と競合しつつも、お互いで潰し合いになることは出来るだけ回避し、各々が利益の確保を可能にするために、他の競合相手に対して何か差別化できる要素が必要となる。
同じ市場内でお互いのコンテンツの棲み分けを可能にし、それぞれの得意分野を磨いていくことで、結果的に市場全体をバラエティ豊かな、より魅力的なものに創り上げていく
・・・すなわちマーケティングの話である。
ここでは「アイドルアニメ市場」なるものを想定し、市場細分化を行うことにしてみよう。
まず、コンテンツが訴求したい相手(顧客)となるターゲット層を分割し、次に各作品の特色別に市場を細分化していく。すると、個人的に知っている範囲の話ではあるが、現時点におけるアイドルアニメ市場の状況は大体はこんな感じだと、以下のように俯瞰するわけである。
(女児向け作品)
・正統派アイドル:「アイカツ」
・不思議アイドル:「プリパラ」
(オタク向け作品)
・正統派アイドル:「アイドルマスター」
・スクールアイドル:「ラブライブ!」
・ローカルアイドル:「WUG」
・地下アイドル:「ミリオンドール」
ここまでくれば察しが付くだろう。
「μ'sがスクールアイドルにこだわる理由」は、コンテンツの作り手側の立場、実際的実務的な視点から見ると、まずは「市場におけるコンテンツの位置付け(ポジショニング)」の問題、「市場からの要請」といった事情が浮かび上がってくる。要はビジネスの問題である。
劇場版には、わざわざ「The School Idol Movie」というサブタイトルまで冠している。
「ラブライブ!」は「スクールアイドルが活躍する作品」である・・・これは作り手側の方からしつこく宣伝されてる感がある。
マーケティングの学説によれば、「ポジショニングの確立」は「競争優位の源泉」でもある。
「スクールアイドルといえばラブライブ!」・・・消費者にこのイメージを浸透させることに成功した時点で「ラブライブ!」はコンテンツ・ビジネスの勝ち組となるわけである。
また、「スクールアイドル」という属性は、最初に触れた「女子高生ブランドの威光」を遺憾なく存分に発揮するにも適切である。うむ。あざとい(笑)
以上に挙げた、このビジネス上の都合を、コンテンツの作品世界・物語世界の中にどのように実装していくか?・・・これが項目(2)で触れる内容である。また、ここは作り手にとっては、「表現者」としての手腕が試されるところでもあるだろう。
(2)「ラブライブ!」におけるμ'sの位置付け
かつては「ラブライブ!」と μ'sとは、あまり区別して考えることがなかったものの、次の企画(サンシャイン)が持ち上がってからというもの、グループ名も決まってCDのリリースまで決まって、新規プロジェクトが着々と進行している現在、μ'sは「ラブライブ!」というコンテンツを構成する一要素であった・・・そんな思いが日に日に強くなってきた感がある。
次期プロジェクトの「ラブライブ!サンシャイン!!」との関連では、μ'sは主人公にとっての「憧れの存在」という設定になっている。
劇場版のストーリーに即して言えば、A-RISEはプロの道へと進むことによってさらなる躍進に弾みをつける一方で、μ'sはスクールアイドルに止まることによって、スクールアイドルの鑑となりイデアとなる道を選んだ。
劇場版における「スクールアイドル」に対する執拗なまでのこだわり具合は、ある種のブランド戦略のようなものを彷彿とさせる。
「ラブライブ!」というコンテンツが十全に機能するためには、「スクールアイドル」という概念が十分に受け手に浸透して認知されている必要があるからだろう。
そういうわけで、まずは「ラブライブ!」自身の手によって「スクールアイドル」という存在を盛り上げていく必要がある。劇場版は、そのための重要な役割を果たしている。
劇場版は「スクールアイドル」についての再確認の場であったし、また、そこではスクールアイドルたちの精神的な拠り所、象徴的な存在となるべく、μ'sを神格化させる必要があった。「サンシャイン」への入り口となるか!?「SUNNY DAY SONG」♫
劇場版は「μ's」を、その意味するところの「女神」へと昇華させる舞台装置としての機能を果たした、そう言ってもよいだろう。
「μ'sがスクールアイドルであることにこだわる理由」は、コンテンツの作品世界・物語世界の視点から見れば、「スクールアイドル」という存在の認知度向上と今後の繁栄のためである。このことは劇中で穂乃果の口から語っていたはずである。
そして、「スクールアイドル」の認知度向上と今後の繁栄は、項目(1)で見たとおり、「ラブライブ!」というコンテンツの存続のためには、必須の条件なのである。
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作品世界においては、マーケティング的な事情などはおくびにも出せないので、「μ'sがスクールアイドルであることにこだわる理由」については、劇中では穂乃果のスクールアイドルに対する美学が語られているだけになっているような印象があって、しかし、それだけだとどうしても説得力に欠けると、つまりそういうことになってしまうのであるが、そういう状況を鑑みたうえでこそ強調すべきは、これは前回のブログ記事の最後にも触れたことだが、穂乃果は「内部指向的な性格」の持ち主なのだ!
「内部指向型」のパーソナリティとは、行動原理が自らの信念や良心に基づくような性格のことである。
「他人指向型」のパーソナリティが中心となっている現代においては、ここに書いてあるような用語に関する知識を持たない人たちにとっては、穂乃果の行動には単に理解し難いものを感じるだけなのだろうか?
劇場版のストーリーを展開していく鍵となるのは、やはり穂乃果の「内部指向的」な性格によるところが大きいように思うわけであるが、しかし、劇場版の観客に対するスタンスは、どちらかというと「他人指向的」である。
作品のストーリー全体を通じて、作り手側が受け手側に対して弁解・釈明しているような節が感じられるのである。
TV版2期で、三年生が卒業したら μ'sは終わりにすることをメンバー全員が涙ながらに誓い合ったのではあるが、しかし劇場版では、μ'sの人気が上がって引くに引けないような状態になってしまった。嬉しくも悩ましい、そんなところであろう。
穂乃果をはじめメンバー全員がこのジレンマに頭を悩ませることになるのだが、答えは最初から決まっている。だから、あの女性シンガーは、(あれは先の展開を簡単には読めなくするための情報待機、すなわち伏線になっていたのだろう)「簡単だったよ」と言ったのである。
しかし、このことについて、どうやってファンに説明責任を果たすか? 問題の所在は、むしろそっちの方にあるだろう。
劇中で穂乃果や3年生たちの心構えが出来上がるまで、このような経緯が現実世界のファンであるわれわれに向けられたものとして理解されるならば、「SUNNY DAY SONG」の感動もまたひとしおであろう。
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ところで、この凛ちゃん、なんか可愛いな❤
アニメ「ラブライブ!」での μ'sは劇場版をもって終了してしまったけど、声優グループの μ'sは6thライブが終わったらどうなってしまうのか? そのうちファンの関心はそっちの方に移行するのであろう。
しかし、内田彩の神がかりな脳トロボイスは、あの「ミリオンドール」の中においてですら、しっかりと、燦然たる光彩を解き放っていたのであった!(オチ)