リリーホワイトから、なぜかプルーストについて語る回

このことは、もっと早い時期に語られていれば旬の話題にもなったのだろうが、このブログを開設したのはつい最近のことなので、今頃になって語ることになってしまった。。。

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昭和89年(2014年)の11月、リリーホワイト「秋のあなたの空遠く」というシングルがリリースされた。
    
この曲にアナクロニズムな古臭さを感じるか、それとも、これを昭和アイドル歌謡へのリスペクトと見て「ラブライブ!」楽曲の奥ゆかしさに改めて感心するか、感じ方は人によって様々であろう。

この曲の構成は、ほとんどサビパートのモチーフだけで持っているような単調なものではあるが、個人的には、そこがかえって気に入っている。Off Vocalのバージョンを聴いているうちに、そのように思った。これは歌い手さんたちには申し訳ないことかも知れないけれど。。。

それでも、楠田亜衣奈の歌う「秋色木の葉には 私の↑恋が~♪」のところは、ある種の天才を感じてツボにはまる(笑)

歌は歌で、良いものがある。しかし「Off Vocalの方も、これはこれでいいな」と思った。
その最たる理由について述べると、次のような感想になるだろう。

歌がある時には気が付かなかったのだが、サビパートの浮き上がって来ては湧き上がるようなメロディが、これが汲み尽くせぬ情味を湛えて、失われた昭和の風景、ノスタルジックな情景を、私の心象風景の中に彷彿とさせたのだった!

このような印象は、Off Vocalの方を聴いてさらに感じたことである。歌が入っていると、あのサビのメロディのリフレインには気付かなかっただろうから、このような印象を抱くことは、おそらく有り得なかったかも知れない。

ここで感じたイメージをカタチにしてみたくて、こんな動画を作ったりもした(拙いw)
これはあくまでも個人的な資料用に作った動画である(言い訳)


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「秋のあなたの空遠く」のCDは、発売日の一週間前くらいにアマゾンで予約した。しかし商品のお届け日は、発売日の一週間後くらいになった。
リリースされてから数日後、この曲の歌詞だけでもネットに上がってないか、曲のタイトルをキーワードに検索してみたら、次のようなサイトに行き当たった。

山のあなたの空遠く 「幸」(さいはひ)住むと人のいふ - 名言


 

「秋のあなたの空遠く」のタイトルのネタ元は、どうやら、このサイトでネタとなっている「山のあなた」という詩にあるらしい。
この発見には、少し感興が湧いた。
ついでだから、上記のサイトに掲載されていた詩を、ここに再掲しておこう。

山のあなた

カール・ブッセ作 上田敏

山のあなたの空遠く
「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」(さいはひ)住むと人のいふ

この文語体の詩を、拙いながら自分なりに口語体の文章にしてみよう。

山の彼方の空の遠くに
「幸福」が住んでいると人は言う。
ああ、我も人も、誰もがそれを尋ねて回ってみたのだが、
結局は、涙ぐみながら、帰ってきたのだった。
山の彼方にさらに遠くに
「幸福」が住んでいると人は言う。


先述のサイトでは、この詩にある「幸福」というものについて、メーテルリンクの『青い鳥』をイメージしながら語っているようであった。素晴らしい!

しかしながら、個人的にこの詩について抱いた印象は、
「幸せは遠きにありて思うもの」・・・ふと、そのような言葉が頭をよぎった。

ついでに、昔観た映画のとあるセリフが思い出された。


邦題「楽園の瑕(きず)」(原題は「東邪西毒」)なる香港映画があって、原作は『射鵰英雄伝』(しゃちょうえいゆうでん)という中国の武侠小説なのだそうだ(読んだことないけど)。

それで、この映画の主人公のセリフに、うろ覚えではあるけど、こういうのがあった。
「昔はあの山の向こうに何があるのか知りたかったが、今は知りたいとは思わない。」

なぜかそういう、厭世的ともいえるようなセリフが連想されたのであった。。。

・・・あの詩についての第一印象はそのように感じたわけであるが、それはさておき、
胸に青雲の志を抱いては都落ちして、今は細々とつましい日々を過ごしては、人生半分降りたような生活を送って、挫折と失敗の経験のみに富む、この情けない現状の我が身にとっては、一段目、二段目については胸が痛むくらいによく分かる。甚(いた)く共感するものがある。
けれども、三段目については、何かいまいちピンとこなかった。

・・・そんなことを考えているうちに、昭和89年(2014年)も終わろうとしているのだった。

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そのうち読もうと思いつつも、実行することなく、もう何年も経ってしまった本があった。
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という小説である。
全編読むとしたら、相当な長編小説である。

プルーストという小説家はマドレーヌのことで30ページくらい書けるスゴい奴らしい」
どこで知ったのか、そんな誤った情報をずっと頭の片隅に保存していた。

「そろそろマドレーヌの謎をはっきりさせよう!」と思いたって、その小説を読んでみようと決めたのは、もう昭和89年(2014年)も終わろうとしている時である。

小説や哲学書などを読む時は、その作品内容の理解の助けとするために、その著者の人物と思想について解説した書物を前もって読むことにしている。これは必ずと言っていいほどで、そうしないと、字面だけ目を通して内容が全く理解できていない、そういう状況に陥ってしまう可能性がかなり高いのだ。。。
そして、小説や哲学書など、いよいよその書籍を読む段階になった時には、いきなり本文には入らず、まずは巻末にある解説から読んでいく。活字ばかりの書物を読む時は、大抵そのようにしている。

この『失われた時を求めて』を読むに当たっても、それは例外ではなく、まずはプルーストについての解説書から読み始めるのであった。

晦日は、ぼっちで過ごしたものの、μ'sのおかげで楽しい時間を過ごせた(笑)


年が明けてから、町の図書館に出向いた。
開架された書棚の、フランス文学のジャンルの場所から『人と思想127 プルースト』(石木 隆治著、清水書院)を見つけた。書棚からその本を取り出してはパラパラとめくって内容を一瞥しながら品定めを行った。書いてあることが何となく面白そうに思えたので、これにしようと決めた。

それで、この本についても、まず初めに「おわりに」から読み始めるわけであるが、ここに書いてある内容を読んでいるうちに、このプルーストという人物にずいぶんと親近感を覚えた。
少し長いかも知れないが、その一部を引用してみよう。

このように彼が人生の中で悶(もだ)えて生きたあげく、気が付いてみると彼はかなりグロテスクな存在として世間に通っていた。いわくスノッブユダヤ人で、しかも変態性欲者(補足:彼は同性愛者である)である。彼は自分がそう見られていることを自覚していたが、真の自己が決してそういうものではないことも知っていた。彼の内部には素晴らしい蜜が流れ、彼が現実を見るときの感動的な目は、人々が彼を見るときのひからびた、偏見に満ちた目とは違っていた。

プルーストはこの自己内部の蜜を人に知らせるには芸術作品という形式を手段とするしかないことを知っていた。彼が『失われた時を求めて』を書いたのは何よりもまず、自己弁明の書としてである。自己の浮薄に見える外皮の内側にはこれだけのものがあるということを人々に知らせたくて書いたのである。自分が真に自己の目で現実を見るとき、現実はこのように見えるということを書いたのだ。自己のすべてを投入した。ということはつまり、彼は自己の表出のために物語という形式を借りただけで、普通の意味で物語を作っていくことにはあまり関心がなくなっていた。プルーストが作り上げた作品は、何よりもまず自己の感官を刺激するもの、自己の魂を揺るがせるものを表出することに重点を置いているから、素材としては自己のあまりパッとしない人生で十分だった。それは物語のようでもありながら、自己主張の評論でもあり、また詩でもあるような作品である。つまり小説でありながら小説ではない作品、小説の可能性を極限にまで広げた作品である。(P.187~P.188)

まずはこういうところから読み始めて、新書サイズなので翌日には読み終えてしまうのではあるが、本書で語られているプルーストの美学」について、個人的に印象に残ったところが二か所ほどあって、それらを引用しておこう。

プルーストの美学の中には、これからある世界に入っていこうとするとき、つまりその世界に強い関心と憧れを抱いているときと、そしてその世界を去ったり、その世界を失ってしまったあとになって、回想するとき最もその世界の魅力を味わうことができるという美学がある。(P.165~P.166)

プルーストによれば人生上のいろいろな価値はそれに憧れているときと、それを回想しているとき、つまりある距離を置いたときに一番美しいのだが、芸術とはいわばそうした距離を置いて人生を見ることを可能にする装置のようなものなのだ。それはいいかえれば、現実を内的なビジョンによって見るということだろう。(P.186)

さて、ここまで読んで気付いたことがある。
プルーストの美学」について、ここで挙げた二つの引用文と「山のあなた」の詩と、きれいに符合するのである。

山のあなた」の一段目は「憧れ」、二段目は「幻滅」、三段目は「回想」、つまりそのように解釈されるわけである。去年のモヤモヤが解消されて、よかった、よかった(笑)

ちなみに、カール・ブッセ(1872~1918)とマルセル・プルースト(1871~1922)は、同時代の人たちであった。

失われた時を求めて』は(集英社文庫版で)全十三巻あって相当な長編小説なのだが、
今のところ読み終えたのは最初の一巻だけである(笑)
ただし、「マドレーヌの謎」をはっきりとさせるにはそれで十分なのだが。。。

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失われた時を求めて』には、作品のライトモチーフに「意志的記憶」と「無意志的記憶」「現在的(アクチュエル)なもの」と「現実的(レエル)なもの」などの諸概念が登場してくる。

「マドレーヌの謎」をはっきりとさせたのは、前者の概念に係る事柄である。

後者については、われらがμ'sに関わる問題でもあるので、そのへんの理解を深めていくとより愛が深まるかも知れない!?(オチ)