小倉陸軍造兵廠(こくらりくぐんぞうへいしょう)跡を散策する回~”孤独な散歩者の小さな哲学”について語る回

皆さん、こんにちわ(^o^)

ツバメが南からやって来るとユリカモメが北に帰って、桜の花が散るとツツジの花が咲いて、そんな季節になりました。ちなみに、「躑躅(つつじ)」は英語で「Azalea(アゼリア)」。

   A(エー)・Z(ズィー)・A(エー)・L(エル)・E(イー)・A(エー)……アゼリアー♪

    ああ皐月 仏蘭西の野は火の色す 君もアゼリア われもアゼリア

そういえば、与謝野晶子の短歌にこんなのがありましたね(^o^)←ウソ    


さて、この案内地図が登場するのもこれで3回目となりますが(笑)、今回は、3月にシステムの不安定によって滅失した記事の復元を試みたいと思います(^ω^)
   これは、DQNと修羅の街・北九州市、小倉の中心部にある勝山公園の案内地図です。

これから語る内容との関連で言えば、「リバーウォーク北九州」「小倉城」「北九州市役所」「大芝生広場」「中央図書館」「長崎の鐘と原爆記念碑」「子どもの遊び場」「都市高速道路(青色の道路)」等の施設の位置をここで確認しておくとよいでしょう。

この地は、都市高速道路の左側(南側)にある土地も含めて、かつて大日本帝国屈指の軍需工場が存在していた場所で、太平洋戦争末期には原子爆弾の標的にもなっていました。

下の画像は、小倉陸軍造兵廠跡の案内板と石碑です。

先の案内地図で言えば、都市高速道路よりもさらに左側(南側)に行ったところに大手町病院という高層建築の総合病院があって、その建物の裏手にひっそりと佇(たたず)んでいます。
 

              案内板の内容を見てみましょう。


平面図の右上には、造兵廠のあった敷地に対応する現在の地図が併記されています。

上に掲げた案内地図や平面図は北が右の方を向いていましたが、下に掲げた地図は北が真上を指して、標準的な方位を取ったものになっています。(←文学部地理学科な説明www)
       
左の地図でピンク色に塗られたエリアが小倉陸軍造兵廠のあった敷地です。
右側の地図は1945年にアメリカ軍が持っていた情報だそうで、"KOKURA ARSENAL"の表記があります。これは”小倉兵器工場”ということで、サッカーチームではありません。。。

この空中写真は、年代の詳細は忘れましたが、おそらく戦後になってGHQに接収されていた頃か、接収が解除になった直後のものではないかと思われます。
・・・これは拾い物の画像で、出典をよく確認しておくべきでした(^^;

ところで話は変わりますが、ここで私が作成している記事というのは、あくまでも自分の目線で見たもの、自分の価値観で感じたことを記述したものに過ぎません。

戦争や自然災害などの人類の生命一般に関わるような話は割合にデリケートな話題であると、自分なりに思います。本記事の記述に自分目線での偏りがあることは否めません。それに補正を加える必要性を感じたりもするので、これに関連する他の記事のリンク先をいくつか貼っておきましょう。

小倉陸軍造兵廠【Wikipedia】

小倉陸軍造兵廠【北九州市】

小倉陸軍造兵廠跡の今昔【日本の歴史と日本人のルーツ】

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それでは、散策した時の話に入りましょう(^o^)

2017年3月11日(土) 晴れ

この日は、西小倉駅から造兵廠跡の敷地を通って小倉駅まで歩いてみました。

赤色の線で囲ったエリアは造兵廠跡のおおよその敷地で、青色の線は僕が歩いた経路です。

西小倉駅は、僕が京都市民だった頃に、いつの間にか橋上駅舎になっていました。
駅舎を出た陸橋から線路を眺めると、日豊本線(左側)と鹿児島本線(右側)が分岐しているのが分かります。
   現在の駅舎は2003年にできたらしい        ←日豊本線 鹿児島本線

ここで鉄道マニアな話になって恐縮ですが、
昭和33年に西小倉駅から800メートルほど東に行った場所に現在の小倉駅が開業するまでは、この西小倉駅がある付近の場所に小倉駅が存在していたそうです。
 
            移転される前の小倉駅(昭和20年代頃)

          移転した新しい小倉駅と当時の駅前の様子(昭和34年頃)

昭和38年には、門司・小倉・戸畑・若松・八幡の5市が合併して「北九州市」が誕生します。

現在の小倉駅北九州市の玄関口となっています。このことから、当時に実施された小倉駅のターミナル化の意味が理解できそうです。また、これに附随して、今や死語となってしまった「高度経済成長」や「北九州工業地帯」などの言葉が思い起こされます。

現在の話に戻りましょう(^o^)

西小倉駅を出て直進すると、間もなく交差点に出て、その左手に「リバーウォーク北九州」の建物群が現れます。

写真の手前にある赤と白とガラス窓の建物は、うちの近所の最高学府であるN.I.T.(西日本工業大学)の小倉キャンパスです。
 
「リバーウォーク北九州」の建物を抜けると鳥居が現れました。少し歩くと、そこには・・・

               デデーン! 小倉城wwwww

ちなみに、この天守閣は、高度経済成長期に「お城ブーム」みたいなのがあって、昭和34年に復元されたものらしいです。・・・あーたらしい時代のー♪ 幕開けに~♪

お濠の周辺は、リバーウォークの建物に入居しているスターバックスのテラス席などがあり、市民の憩いの場になっています。
中国や韓国などから来訪されたと思われる観光客の姿も見受けられました。
 
城内へとつながる鳥居の下には、自走式ハンバーガーショップが店を構えていました。

         このへんで、リバーウォークと小倉城を後にします。

   次に進みましょう。前方にあるドーム状の建築物は、中央図書館の建物の一部です。
   左奥に見えるビルは小倉北区役所です。

道路を隔てた側の歩道に、隊列をなして練り歩く人々の姿が見えます。

その列の所々から拡声器で響き渡るかけ声を耳にしていると、それは原発に反対する市民デモの集団のようでした。

小倉北区役所の方向に進んでいくと、「大芝生広場」にやって来ました。

昔、兵器工場だった敷地は、今は市民に憩いとくつろぎを与える平和な場所になっています。
われわれが求めるものは「自由」、願うものは「平和」。キー・ハンター(^ω^)
 
上の大芝生広場の写真を造兵廠跡の平面図と対応させてみると、たぶん、このへんに該当するだろうと思われます。

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前章よりも1か月前の話になります。

2017年2月11日(土) 雲が多めの晴れ

この世界の片隅に」というアニメ映画を観た時に、そういえば紫川に架かる勝山橋の左岸側の袂(たもと)に長崎の原爆犠牲者を追悼する慰霊碑があったような、そんな記憶が思い起こされました。

これが今回の記事の端緒となったわけですが、かつてその石碑を見かけたはずの場所は、現在はリバーウォーク北九州の建物が立っているようです。(←あいまいな記憶www)

本記事の冒頭に掲げた案内地図に「長崎の鐘と原爆記念碑」というのがありました。
この章では、そちらに行ってみましょう。

中央図書館の裏手に「平和祈念碑」の案内板がありました。
写真の左側に植えられている樹木は桜のようです。案内板も立っています。見てみましょう。

  この桜の木には、何やら謂れ(いわれ)があるようです。下にその内容を転記しました。

              「嘉代子桜・親子桜」

昭和20年8月9日11時2分、長崎市に原爆が投下されました。
爆心地近くの城山国民学校(現城山小学校)で学徒報国隊員として働いていた長崎県立高等女学校4年生の林 嘉代子さん(当時15歳)も多くの女子学生とともに原爆の犠牲になりました。
お母さんの林 津恵さんは、嘉代子さんを偲ぶとともに、満開の桜が娘の嘉代子さんと多くの女子学生の魂をなぐさめ、人々の励ましとなるよう、願いを込めて城山小学校の校庭に桜の木を植えました。
同小学校に植えられた桜は、「嘉代子桜」と呼ばれ、今も母と娘の平和の心を伝えています。昭和20年8月9日の原爆投下は、当初、この地にあった小倉陸軍造兵廠を目標としていましたが、当日の小倉上空が視界不良であったため、第二目標の長崎に投下されたのです。
このことを顧み、北九州市においても二人の平和への思いを広げていくため、この桜を「嘉代子桜・親子桜」と名付け、ここに植えて育てていくことにしました。
城山小学校の「嘉代子桜」とともに、「嘉代子桜・親子桜」の成長を通じて、ひとりでも多くの人々に平和の心が広がり、後世に伝わっていくことを願っています。

                        平成21年4月6日 北九州市

          桜の寄贈 かよこ桜親子桜を広める会

悲しくも美しい話だと思います。
私たちも平和の尊さを忘却してしまわないように心掛けたいものです。

  平和祈念碑の全景です。それぞれの構成要素について、右から順に見ていきましょう。

              広島市の木、キョウチクトウ

                   長崎の鐘
               
             「平和祈念碑と長崎の鐘」の案内板

                   平和祈念碑


                北九州市非核平和都市宣言

3月に再びここに訪れた時には、モニュメントはこの場所から撤去されて、遊歩道の向かい側にある芝生の広場の方に移設する工事が進められているようでした。
 
     市民目線からすれば、これは予算消化のための不必要な公共工事???

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ここでまた3月に散策した話に戻ります。

今回の記事の冒頭で触れた、大手町病院の建物の裏手にある小倉陸軍造兵廠跡の石碑と案内板がある場所までやって来ました。その全景です。ここでは両サイドに建つオブジェについて、少しばかり見ておきましょう。

    まずは、手前のやつから。建造物の下部に、このような説明書きがあります。

               給水塔(当時の現物)の遺影???

 一瞬、政治犯や思想犯を収容する独房のようにも見えた、この建造物は一体何でしょう!?

機関砲を備えてあったようです。P-51戦闘機の襲撃には対応できたかもしれません。B-29の爆撃に対しては見張りの役目は期待できそうですが、しかし、この工場で爆撃による犠牲者が70名も出てしまったことは、とても悲しく残念なことです。 

P‐51の襲撃とはいえ、ロケット弾とか発射されたらひとたまりもない・・・みたいな動画を見つけたので、ここに貼っておきましょう。
   

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大手町病院から勝山公園に引き返して、それから小倉駅の方へと向かいます。

広い通りを歩いていると、何やら活気に満ちた声がざわざわと聞こえてきました。道路を隔てた所に「子どもの遊び場」がありました。子どもたちのはしゃぐ元気な声が聞こえてきます。春めいた晴れた土曜の午後、平和に満ちたような光景が、そこにはありました。
   「子どもの遊び場」・・・冒頭に掲げた案内地図を参照してみてください(^o^)

ここで、不図、モリッシーの「Everyday Is Like Sunday」という曲が脳裏をよぎりました。

                   モリッシー

この曲の歌詞の内容については、下記のサイトをご覧ください(^ω^)

Everyday Is Like Sunday モリッシー(Morrissey)【およげ!対訳くん】

    
海辺の保養地で休暇を過ごしているようですが、これにも諸般の事情があるようで、耐え難い退屈な日々に対して「ハルマゲドン来い」とか「核爆弾来い」とか歌っている内容の曲です。

勝山公園の歴史的な背景や、数年前にこの日に何が起こったか、そういうことを踏まえれば、
この曲が脳裏によぎったことは、不謹慎なことなのだろうと、我ながらそう思います。。。

とはいえ、ここで問題にしたいのは「退屈」という事象についてです。

「暇」と「退屈」は似て非なるもので、「暇」と比べると「退屈」は「人生にうんざりしている」というニュアンスが強く、「暇」よりも「退屈」の方が症状としてはより悪質なものだと思われます。「退屈」がいじめや犯罪の温床になることは社会ではよくある現象です。

僕もかつては孤独と退屈には、ずいぶんと苦しめられた時期がありました。現在においては、孤独であることには変わりはないですが、退屈を感じることはあまりありません。このへんについては、人生に対する態度の変化によるものではないかと思われます。
・・・きっと切ない誓いがあったのだろう(´ω`)

「退屈」はエゴイズムとスノビズムナルシシズムのなれの果て・・・そのように思います。

この3点セットが己に自覚されない限り、例えば、それなりの社会的地位を得ることができたとしても、それは単に己の虚栄心を満足させるものに過ぎず、経済的な富は麻薬的にしか作用しないでしょう。己のバカさ加減に気付くことがなければ「バカに付ける薬はない」「バカは死ななきゃ治らない」すなわち「絶望の原理」「死に至る病」です。

京都での単身生活で孤独と退屈に苛まれた身としては、梶井基次郎の『檸檬』という短編小説はもはや他人事とは思えず、作中の文章が頭の中で映像となってありありと想像できるほどにリアリティに富んでいて、ああ、ドッペルゲンガーwww
                   梶井基次郎

この作品は文庫本にして10ページ程度の、いわゆる「掌(てのひら)の小説」のサイズですが、
個人的には、諸般の事情もあって、中身は大変に濃く感じられます。

この小説は、退屈な日常にうんざりして、京都の街を一人徘徊する中、八百屋で買ったレモンを時限爆弾に見立ててテロルな妄想を抱いてしまう・・・そんな話だったと思います。

興味を持たれた方は読んでみるとよいでしょう(^ω^)

梶井基次郎 檸檬【青空文庫】

ドッペルゲンガー」で思い出しましたが、同じ退屈を描いた作品といっても、尾崎翠(おざきみどり)の「こほろぎ嬢」は、現代のオタクな感性からすると「エロマンガ先生」的な可愛らしさと相通じる何かが感じられなくもない???
                   尾崎翠

このヤンデレな小説は、10年くらい前に映画化されたらしいです。
    

    ❤「エロマンガ先生」には、(物書きの)男のロマンが詰まっている???❤

なぜか話が「エロマンガ先生」にまで飛んでしまいましたが、この章での教訓めいたことを
ひとつだけ挙げておけば、つまりこういうことになるでしょう。

「退屈と平和」・・・これの怖いところは「平和ボケして平和の有難さを忘れてしまう」 


「平和は尊いよ」・・・あの言葉がしみじみと思い返されます(´ω`)



ところで、ここでモリッシーというアーティストの名前が出てきました。この人はイギリスのオルタナティブ系のロックシンガーで、今ではもう、かなりのおっさんになったと思います。「Everyday Is Like Sunday」も今から約30年くらい前の曲で、まだソビエト連邦が存在していた頃の時代www
               おっさんになったモリッシー

どうして僕がこの人の曲を知っているのかは、最初に就職した職場の新人研修で、同じ班になったメンバーに京大卒で在学中はバンドでキーボードをやっていたという奴がいて、彼から「The Smiths(ザ・スミス)」というイギリスのネオアコースティックなロックバンドの楽曲を教えられて、モリッシーはそのバンドの首謀者で、作詞とボーカルを担当していたのでした。

女に苦労しているような歌も少なくなく、この世界観には、ずいぶんと傾倒しました(笑)

もっとも、この時にはすでにThe Smithsは解散していて、彼らの存在を知った頃のアルバムも再販もののCDで、リアルタイムでのThe Smithsは知りません(^^;

  80年代イギリスのカルトバンド、The Smiths(ザ・スミス)・・・永遠の思春期www

その京大卒の同僚のE君はクソ生意気でいけ好かない奴でしたが、The Smithsを紹介してくれたことについては感謝しています(´ω`)

80年代にすでにニートをカッコよく歌った曲があって、イギリスは草の根文化的に先進国なのではないかと思ってしまいました(笑)



「仕事になんか就きたかないね なぜなら僕はとてもシャイだから」
・・・素晴らしい歌詞ですね(*´ω`*)

ついでに、これも見とけ(^^♪


The Smithsの解散話は、たしかギタリストのジョニー・マーアメリカに逃げ出して、ジャーナリズムの報道からモリッシーが事実上解散したことを初めて知ったみたいな、そんな話があって、このバンドはいろいろと興味が尽きないところがあって、The Smithsモリッシーについては僕が語りだすとまたきりがなく、しかしこれには時間と体力の都合とかもあって、そういうわけで、今回の記事はここくらいにしておきます。またねー(^o^)/