【ネタバレ注意】「現在的(アクチュエル)なもの」と「現実的(レエル)なもの」について~μ'sを例に~考える回

7月24日(金)、曇り。朝には霧が出ていた。
劇場版「ラブライブ!」を観に行くこと3回目、前回は入場者特典(この時は色紙だった)をもらいそびれたものの、今回はフィルムをもらうことができた♪
これは、穂乃果宅にメンバーが集合して、そこでお茶をすするにこちゃんのシーンである。
たしかこの後に、にこちゃんはセレブな妄想モードに突入して「にっこにっこぬえ~」とか言って悦に浸っては、周りを呆れさせるのであったwww

そういえば、つい最近(7月20日頃)のことであったが、「僕たちはひとつの光」のライブシーンにある、にこちゃんがアップで映った場面のフィルムが、ヤフオクで91万3000円で落札されたのだそうだwww

Twitterでは「10秒でラブライバーだけを殺す兵器」という動画付きのツイートが流れていた。
こういうのを知ったうえで再度劇場版を見に行ったら、映画のエンディングに入るあたりで現れるそのシーンに、たしかに危うく「殺されかけた」(笑)


ペガッサ on Twitter: "10秒でラブライバーだけを殺す兵器 http




この10秒の短い動画を知ることがなかったなら、そのような感慨を抱くまでには、おそらく至らなかっただろう。

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公開からしばらく経って、作品に対する様々な感想やネタが出回って、また劇中の挿入歌のCDもリリースされて歌詞の内容も判明して、それらを踏まえて再度作品を鑑賞すると、このような情報をまだ知らずに観ていた時点での印象とはまた一味違った、新しい印象を抱くことができる。

映画は、まず公開直後に鑑賞し、公開からしばらく経って作品の評判やネタなどがいろいろと出回って、そういうのを知ったうえで再度鑑賞すると、作品世界をより楽しむことができる。
これはもはや、映画鑑賞の定石と言っていいかも知れない。

劇場版「ラブライブ!」は、一回目は公開初日(6月13日)に観に行った。それから三週間して(7月4日に)もう一度観に行った。そして今回(7月24日)が三回目の鑑賞となる。

公開初日に初めて作品を観た時の印象、「SUNNY DAY SONG」や「僕たちはひとつの光」のCDがリリースされる前の二回目に観た時の印象、そして、それらのCDもリリースされた後の三回目で観た時の印象、それぞれにそれぞれの印象がある。

一回目、二回目に観た時の印象の具体的な内容については、前回までに投稿したブログ記事で語っているつもりなので、そちらを読んでいただければ幸いである。


ラブライブ!」は、肯定的なもの、批判的なもの、否定的なもの、それらをすべて含めて、割合に豊富なネタを提供してくれるコンテンツなので、これまでに述べたことを一言にまとめれば「印象の重層感」とでも言えばよいのか、そういうのが顕著に現れるよう思う。

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アニメ「ラブライブ!」ではラストライブとなって、そして映画のエンディングへと続いた「僕たちはひとつの光」は、ファンにとっては、初見から何か感慨深いものがあっただろう。

この曲のCDがリリースされて歌詞の内容も把握したうえで、再度このラストライブのシーンを観ると、今度は言葉に託されたメッセージが歌に乗せてじわじわと伝わってくるのを感じることができたように思う。

各キャラのイメージカラーと咲き誇る花々で彩られた背景の前面に、μ'sのメンバーの一人一人がアップで映るシーンは、歌詞を把握したことによって、そこに言霊でも宿ったのだろうか、前回に観た時よりも、それぞれのキャラクターがより鮮明に生き生きと感じられて、あたかも浮かび立つかのように見えてきた。

91万3000円でフィルムが落札された話もネタとして貢献することになるのだろうが、もし、そういう話がなかったとしても、この場面は、このアニメーション作品における最も鮮やかで華々しく美しいシーンのひとつとなるだろう。

さらに曲の中盤の間奏に入る頃、青空だけのカットに切り替わって、そこに白い文字で「Love Live」と浮き出しては赤文字の「ラブライブ!」のタイトルロゴへと変化し、そろそろ映画のエンディングに差しかかろうとするこの場面で、いよいよ感極まってきて、大事なことなので繰り返しますが、たしかにここで、危うく「殺されかけた」のだった(笑)
・・・シンボル操作というのはスゴいな!

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映画の感想はこれくらいにして、本題に入ろう。

このようにして、われわれの元に爽やかな感動を届けてくれた劇場版「ラブライブ!」なのであるが、今はこうやって巷でも話題にもなっていることもあって、作品に対して新しい感情を次から次へと付け加えることができる。

この作品は今、われわれにとって「現在的(アクチュエル)なもの」として存在している。
・・・つまり「だってだって、いまが最高!」

今年の夏は、この作品の余韻に浸りながら、甘美で切ない心持ちで過ごすことになるのかも知れない。しかし、夏が終わる頃には「いつの間に秋風が吹いてたの?」といった心境になってしまうのかも知れない。ああ、「夏、終わらないで。」ビビビビビwww

やがて話題も過去のものとなって、秋が来る頃には、やがて飽きが来てしまいそうな・・・「ラブライブ!」の楽曲に歌詞を提供してる畑亜貴は「秋」と「飽き」を掛けるの好きだったよねー、あと「高まる」の言葉を結構好んで使ってたよねー、などと話がまた脱線しつつも、つまり何が言いたいかというと、


「現在的(アクチュエル)なもの」は、やがて過去のものとなる。すなわち「諸行無常の理」に晒される運命にあるのだ。


一方、作品に対して抱いた印象、そこで得た美の驚き感動など、それらは反復されて強度を増していくごとに、それまで即物的・刹那的なものであった「現在的(アクチュエル)なもの」は「形而上的なイメージ」へと変換・精製され、やがてわれわれの精神世界のアーカイブへと引き渡され保存されることになるのであろう。

「形而上的なイメージ」とは、このような形式で保存された時点で、イデアの次元にまで昇華されて高次の「現実」となって結晶し、われわれの精神世界の内に「永遠の生命」を獲得することになる。
・・・すなわち永遠に「No no no いまが最高!」

「現実的(レエル)なもの」とは、つまりそういうことである。

・・・これを単なるレトリックだと言ってしまえば身も蓋もないが、そうはいっても形而上学というものは、やはりレトリックなんだろうなあ。。。しかしそこは「信じる力」www

僕たちはひとつの光」には、ライブシーンの映像にしても歌の内容にしても、どこか仏教の極楽浄土のイメージを思わせるようなところがあって、そういうわけで上記で語ったような「永遠の生命」についてのインスピレーションが掻き立てられたのであった(執筆の動機)

ここでは劇場版「ラブライブ!」の内容に即して議論を展開しているけれど、ここで話したことは、楽曲などについても、もしそれに本当に感動した経験があったなら、もちろん同じことが言える。

さらに言えば、「ラブライブ!」に限らず、これはどんなことにも言える。
・・・そんなこと言うまでもないか。。。


なお「現在的(アクチェル)なもの」と「現実的(レエル)なもの」の概念について、元ネタは、

失われた時を求めて〈1〉第一篇 スワン家の方へ〈1〉」 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)の巻末に収録されているエッセイプルーストから吉田健一へ」(松浦寿輝)にあるので、興味を持たれた方は一読されてみるとよいだろう。

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さて、ここまで来たところで「永遠の生命」を無価値化する力についても考えてみよう。

「無価値化する力」とは、すなわち「ニヒリズム」である。
ニヒリズム」は「エゴイズム」と「スノビズム」の中に潜む。

「エゴイズム」は「利己主義」「自己中心主義」といわれる。
スノビズム」は「俗物根性」「俗物的態度」といわれる。

この両者には密接な関係がある。というのも、用語や意味の違いはあっても、この両者が実際にやっていることといえば、自らを価値あるものに見せようとするために周囲の価値を相対的に貶めようとする活動なのである。裏を返せば、自らが無価値化されることの恐怖から生じた活動、と捉えることもできるだろう。

「エゴイズム」と「スノビズム」の密接な関係について説明したものとして、
プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界」 (鈴木道彦 著 集英社新書)「芸術的なスノブ」の記述があるので、その一部を引用しておこう。

こういう芸術的なスノブたちは、権威ある他人の判断基準に従いながら、いつの間にかそれを自分の判断のように思い込むのだ。流行がワーグナーであり、ドビュッシーであり、また、マネ、モネ、ドガである、という理由でそれらを好む人は、次の流行にも目を光らせて、それを自分の判断に取りこまねばならない。この態度を軽々しく嗤うことはできない。というのも、われわれの好みや判断には、多少とも他人の視点が入りこんでいるからだ。そうでなければ、現代思想や現代芸術の変遷のある部分は理解し難いものになるだろう。(P.118~P.119)

だが、主体的判断以上にスノブを突き動かすのは、彼らの客体的判断、あるいはむしろ対他感覚とでもいったもので、これはさらにいっそう他者の支配下におかれている。というのもスノブはけっして賞賛の対象に近づくだけで満足するわけではないからだ。彼らは、自分たちがある対象に近づき、ないしはその対象を手に入れたことを、他人に知られたいのである。他者の目に映る自分の姿こそが彼らに満足を与えるのであって、この見栄が彼らの行動の原動力なのだ。(P.120)

つまりスノブは他者の目に映る自分の姿を重視するのである。(P.121)

上にある記述を参考にすれば、「永遠の生命」を無価値化する力とは、芸術の文脈で言えば、権威主義的な態度」や「流行」或いは「流行だけで作品の価値を判断する人々」ということになるだろう。

今回の記事のテーマに即したなら、「現在的(アクチュエル)なもの」のみに価値を置いて、「現実的(レエル)なもの」に対しては全く無頓着な態度のことである。そのように言ってよいかも知れない。

もっとも、私自身が普通にスノッブな人間なので、スノッブに対しては、批判はしつつも否定するつもりは毛頭ない。

今回は「永遠の生命」・・・言うなれば「聖なるもの」「いと高きもの」「至高性」などに関わる事柄について語ったので、ならば、その対立概念となる「卑俗なるもの」についても触れておいた方がより公平な議論を期することができるだろうと、そのように考えたまでのことである。

ところで、セレブを夢見る「にっこにっこぬえ~」のにこちゃんは、アニメ「ラブライブ!」のμ'sのメンバーの中では、一番の俗物根性の持ち主、すなわちスノッブである。
しかし、にこちゃんのスノビズムには滑稽さは感じても、なぜか嫌らしさを感じることはなく、むしろ滑稽さの中にも親しみを覚えてしまうところに、ある種の普遍性すら見出すことができるだろう。見習いたいものだ。
ちなみに真姫ちゃんは、普通にセレブなのであったw(オチ)

上の画像は、TV版1期10話からのカットです。念のため。