【ラブライブ!】【がっこうぐらし!】「純粋経験」と「Wonder zone」と「超越者の暗号」について語る回

皆さん、お久しぶりぶりwww(死語)

暑い日が続くので、いきなり寒いことを口走ってしまいました。。。

皆さまにおかれましては、お元気にされてますでしょうか?


前回
は、にこちゃんが鏡を見て自分が天使に見えたことについて、「純粋経験」という概念を強引に引っ張ってきました。いわゆる「牽強付会」というやつですか(笑)

                  
純粋経験」というのは哲学用語で、西田幾多郎の『善の研究』に詳しく書かれています。私としましては、再び『善の研究』を読み返すのは面倒くさいので、趣味のブロガーなので、などを言い訳に、とりあえず下にある記事の引用で間に合わせておきます。あしからず(^^;

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

純粋経験
じゅんすいけいけん
pure-experience

理知的な反省が加えられる以前の直接的な経験、すなわち、あとからつけ加えられた概念、解釈、連想、構成などの不純な要因をあたう限り排除することによって得られた原初的な意識状態をさす。おそらくは幼児がもつと思われる、自と他、物と心といった区別が生ずる以前の未分化で流動的な意識のことをいう。

この純粋意識を基礎に置く哲学には、マッハおよびアベナリウスの経験批判論、ジェームズの根本的経験論、ベルクソンの純粋持続の哲学などがあげられる。これらは実証主義から形而上(けいじじょう)学までその立場に違いはあるものの、新カント派などにみられる主知主義的傾向およびデカルト以来の物心二元論に対する根本的な批判の姿勢を有することにおいて軌を一にする


とくにジェームズは、純粋経験をもっとも基本的な実在としてとらえ、いっさいの観念や理論をこの直接所与、多即一の流動的実在から説明しようと試みた。


わが国では西田幾多郎(きたろう)が、ジェームズや禅仏教の影響下に、
主客未分、認識とその対象とがまったく合一した意識状態純粋経験と名づけ、それを自己の哲学の出発点に据えた。
                                   [野家啓一
『W・ジェイムズ著、桝田啓三郎他訳『根本的経験論』(1978・白水社) ▽西田幾多郎著『善の研究』(岩波文庫)』

これを自分なりの解釈で、ざっと言ってしまえば、「虚心坦懐の状態で見えたもの、聞こえたもの、そういうものが真理の始まりで、哲学はそこから始めよ。」みたいな感じですか。

純粋経験」と「直観」は、たぶん、似たような内容を指しているのかな、と思います。

直観」は、文字どおりに解釈すれば、(世界を)「直に観る」ということで、そこにおいて「世界のありのままの姿」「世界の真実の姿」が顕現される、つまり対象を「直観」した刹那において「イデア」を目の当たりするみたいな、そういうことなんでしょう。

そこには、われわれの通常の認識の主体である意識レベルよりもさらに深層の無意識のレベルまでを含めた「観察力の極み」みたいなものを感じます。

「直観」する能力は、科学上の重大な発見とかでも大切なことですよね。
ニュートンが、リンゴの実が木から落ちたのを見て、万有引力の存在を直観した、みたいな。

物事から何かを「直観」する能力は、言い換えれば、何かを「発見」する能力でもあり、ここから得られた何かは、意味や価値の源泉となるものだと思います。
いわゆる「セレンディピティ」みたいなやつですか、これは。
 (たぶん、これが今回の記事のテーマ)

というわけで、にこちゃんの、すっとぼけた発言の真相は、おそらくこのあたりに求められるべきなのでしょう(謎理論)

一般に「予感」「第六感」「勘がいい」「女の感」などといわれる、あの頭に「ビビーッ」みたいな感じが走って気配とかを見抜くようなアレは「直感」の方で、「直感」と「直観」は、そのへんの違いを区別することが大切かと思います。

・・・くれぐれも誤解しないでいただきたいのは、これは「直感」と「直観」との優劣関係を述べているつもりではないので、念のため。


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お盆を過ぎた頃に、このような記事を読みました。


この記事で、高橋さんが洗面台で長男の歯を磨かせている時に、鏡の中に亡父の姿を見て、それからいろいろと思索を巡らせるくだりは、これはおそらく「純粋経験」的な体験について示していると解釈しても差し支えないだろうと思います。

純粋経験」を契機に、真理の探求に目覚める。
その分かりやすい事例ではないかと思います。

これは良い記事なので、ぜひ一読されることをお勧めします。

余談ですが、最近、ニコ生でアニメ『がっこうぐらし!』1話~6話振り返り上映会を観ました。
「ゆきビジョン」と「めぐねえ」のことで、なぜか、上にある高橋源一郎さんの記事を思い出しました。

なお、このアニメはリアルタイムで絶賛放映中なので、これ以上の詳細には触れません(言い訳)

   




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話は変わりますが、「ラブライブ!サンシャイン!!」のAqours(アクア)は10月にCDをリリースすることろまで来ましたね♪ Aqoursは造語らしいので商標登録しとかないと(!?)
個人的な趣味では、今のところ推しは、花丸ちゃん❤

           ずら子は、「お寺の娘で文学少女」という設定でしたよね❤

新企画のAqoursが、そろそろ具体的な動きを見せている一方、二次元スクールアイドルのμ’sは劇場版「ラブライブ!」を以って大盛況のうちに終了の運びとなりましたが、それで、利益の配分がどうなっているとかは知る由もないですが、とりあえず、しこたま儲けることが出来てよかったですね!

声優アイドルのμ’sは次の冬のライブで解散になるんですかね。5か年計画のプロジェクト組織だと言ってしまえば、マーケティングの観点も含めてラブライブ!」というコンテンツを面白がってる、もとい楽しんでいる立場からすれば、こういうのは、なんかカッコよくも思えたりするわけですが、このようなニワカな薄情者でも、それでもやはり、何か寂しいものは感じます。。。

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個人的に「ラブライブ!」を好きになった理由は、実は楽曲によるところが大きくて、私事で恐縮ですが、i-Tunesのプレイリストに「ラブライブ!アンソロジー」みたいなのを作成して、仕事で量のある単純作業をこなさないといけない時に、それを流しっぱなしで作業して、そういうことを何度となく繰り返しているうちに、μ’sへの愛着も深まった・・・みたいな感じです。

なので、個人的には「ラブライブ!」の楽曲には、労働歌のイメージが結構あったりします(笑)

また、そういうことをやっていると、意識的に「この曲が好き!」というよりは、いわば無意識的に「聴いているうちに好きになった」みたいな曲とかも出てきて、そういうプロセスを経て好きになった曲を適当に挙げてみれば、大体こんな感じでしょうか。

        ♫ baby maybe 恋のボタン  ♫ 夏色えがおで1,2,Jump!
           ♫ これからのSomeday  Wonder zone
              ♫ 夏、終わらないで。 ユメノトビラ  

       
 
殊に「Wonder zone」については、アニメで観た時は、これといって特別なものを感じることはなかったのですが、ある日、音楽を流しっぱなしで作業の方に集中していたら、突然Wonder zone 強い私へとなれるミライ~♪と、なぜかその歌声だけが尋常ならざる鮮明さを以って耳に入ってくると同時に、ダイレクトに脳を直撃した感じがして、一瞬、自分の中に「今のとてつもなく可愛らしい声、何っ!?」みたいなどよめきが起こって、何とも不思議な印象を受けました。
あゝ、湧き起こるクオリアWonder zone体験♪


これは、曲の間奏が終わった直後に入ってくる内田彩のソロパートの箇所だったわけですが、後になって、これはたぶん「純粋経験」的な体験をしたのだろう、と勝手に結論しました。

                    ※画像はイメージです。

あの時の、あの印象を、意識的に再現することは不可能です。描写によって状況を理解することができるのみです。
「一回性」「唯一性」の中に、隠された「存在の声」を聴き、「存在の暗号」を垣間見たのかも知れません。不思議です。神秘です。


  全く個人の主観的な経験だったとはいえ、そのような出来事があって以来
    内田さんのことを「天才」と崇めるようになってしまいました!!


ちなみに、これはアニメ版のやつですが、これはこれで良いものなので、参考にどうぞ♫



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それまで全く気にもかけなかった「Wonder zone」が突如として興味の対象となったので、後日になって、歌詞の内容をインスペクト(精査)してみました。


作詞の畑亜貴さん(自称11人)は、大変によい仕事をしましたね♪

Wonder zone
キミに呼ばれたよ 走ってきたよ
きっと不思議な夢がはじまる

Hi!はじまるよ(Wonder feeling)
不思議だよ 特別な夢さ(Wonder feeling)

元気あげたいな 明日もHappy
いっぱい楽しんで ときめきたいよ

元気出し過ぎて 転んだあとも
さっと起き上がり 笑顔でしょ!

どんなに つらいコトがあっても
泣かずにがんばらなきゃ輝けないね!

Wonder zone
強い私へとなれるミライ
いっしょに見つけよう I'm OK!
キミにつよく呼ばれたよ 走ってきたよ
きっと大きな夢がはじまる

Hi!はじまるよ(Wonder feeling)
不思議だよ 特別な夢さ(Wonder feeling)

勇気忘れずに 進めばLucky
みんな出会えるよ しあわせになれ

勇気消えそうで 不安なときは
うんと背伸びして 前向いて!

なんども確かめたくなるよ
となりにいてくれるキミに合図!

Wonder sign
熱い喜びをまねくミライ
いっしょに感じたい You're my friend
キミとあつく動きだそう 急いできてよ
ぐっと大きな夢をはじめよう


Wonder zone
強い私へとなれるミライ
いっしょに見つけよう I'm OK!
キミにつよく呼ばれたよ 走ってきたよ
きっと大きな夢がはじまる

Hi!はじめるよ(Wonder feeling)
不思議だよ 最高の夢さ
(Wonder feeling)

(※緑の文字
の箇所そのいわゆる「純粋経験ゾーン」)

これは一見したところ、私たち聴き手にとって、メッセージ性の強い「元気応援ソング」です。

Wonder zone」は「アキバ」のことで、たしかに「きっと不思議な夢がはじまる」
・・・そうなんでしょう。

「辛い現実に耐えて、お金を落とした分だけ、ここはワンダーゾーン♪」
・・・最初はそのように思われました。

それはさておき、もう少し穿(うが)った見方をすると、これは、友情や仲間たちとの一致団結を謳歌した形で、労働生産性向上運動の志気を高めるための労働歌だと、次はそのように思われました。

組織における「インフォーマル集団」の存在が、従業員たちの志気を高め、作業の能率の向上に寄与することは、経営学の分野においても周知のとおりです。

また、この歌は、実存哲学的な解釈も可能だと思われます。このことについて、さらに章を変えて検証していきましょう。


労働者の娘”ミナリンスキー”の姿に身をやつして和光同塵の修行に精進される南ことりさん(16)




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ここでは、ヤスパースの実存哲学の「さわり」みたいなものを記述した記事を参考にしながら、さらに考察を進めていきましょう。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ヤスパース
やすぱーす
Karl Jaspers
(1883―1969)

主著『哲学』は、ヤスパースの実存思想の全体を伝える大著であるが、それによると哲学の課題は、存在意識を変革しつつ世界から超越者へと超越していくことにある。

すなわち第一巻『哲学的世界定位』では、世界知についての反省の結果、「世界がすべてであり、科学的認識が確実性のすべてである」とする世界内在的な態度が放棄され、存在意識変革の第一歩が踏み出される。ついで第二巻『実存照明』では、世界存在に解消されない人間の実存が内部から照らし出され、それがけっして自足した存在ではないことが示される。


つまり
実存は、死、悩み、争い、罪といった、人間が免れることのできない「限界状況」に面して自らの有限性に絶望するが、しかしそれと同時に実存は超越者が主宰する真の現実へと目を向け、存在意識を変革しつつ、本来の自己存在へと回生する。

第三巻『形而上
(けいじじょう)学』では、超越者が実存に対して自らをどのような形で開示するか問われ、超越の最終段階である「暗号解読」に到達する。ここではすべてが超越者の暗号となり実存はこれらの暗号の解読という形で超越者の現実を確認するのである。

『哲学』以後、ヤスパースは実存とともに理性を重視し、実存からの哲学はまた理性による哲学であるべきだとするが、第二の主著『真理について』は、理性の側に力点を置き、存在そのものを包括者としてとらえ、その諸様態を解明したものである。


こうしたヤスパースの哲学は、全体として、個人の尊厳を重んじるヒューマニズムに支えられており、
彼はこの立場からまた歴史や政治や宗教の問題についても積極的に発言した。この方面の著作には『歴史の起源と目標』(1949)、『原子爆弾と人間の未来』(1958)などがある。

                                     [宇都宮芳明]
                            『『ヤスパース選集』(理想社)』



それでは、「Wonder zone」の歌詞について、上に引用した記事を参考にしながら、内容を見ていきましょう。

「Wonder zone キミに呼ばれたよ 走ってきたよ きっと不思議な夢がはじまる」

・・・ここでいう「キミ」とは誰なのでしょう?
そうですね。これは「歌を聴く側」のこと、すなわち「私たち」のことですよね(確信)

で、これはμ’sの歌で、μ’sのメンバー各位におかれましては、それぞれの今後のさらなるご活躍とご健勝を祈願したく存じ上げます。

ただし、μ’s自体については、近い将来には、私たちにとっての「超越者」のステータスを獲得することになるのだろうと、ニワカで薄情なファンの一人ではありますが、そのような心積もりでいます。

浄土系の仏教では、「南無阿弥陀仏」という念仏は「阿弥陀如来に帰依します」という意味であると同時に、阿弥陀如来の方から「キミに呼ばれたよ 走ってきたよ」、そういう意味でもあるらしいですね。・・・って、じーちゃんが言ってたずら(ずら丸)

曲の中で、規則的に出現してくる感じの「ピャァー」みたいな効果音は、あれは、超越者なイメージがあるように思います。


「どんなに つらいコトがあっても 泣かずにがんばらなきゃ輝けないね!」
・・・一見、やさしい言葉で片付けていますが、ここは、上に引用した記事にあった、実に重いことを語っている、この箇所に該当するでしょう。

「つまり実存は、死、悩み、争い、罪といった、人間が免れることのできない「限界状況」に面して自らの有限性に絶望するが、しかしそれと同時に実存は超越者が主宰する真の現実へと目を向け、存在意識を変革しつつ、本来の自己存在へと回生する。」

ここは、「ゆきビジョン」と「めぐねえ」の真相に関わってくることかも知れませんね!
なお、このアニメはリアルタイムで絶賛放映中なので、これ以上の詳細には触れません。
(繰り返し言い訳)

Wonder zone 強い私へとなれるミライ いっしょに見つけよう I'm OK!
        キミにつよく呼ばれたよ 走ってきたよ きっと大きな夢がはじまる」
・・・「強い私へとなれるミライ」、これは「聴く側」である「私たち」の宣言部と捉えてよいでしょう。それに対して超越者が「いっしょに見つけよう I'm OK!」と呼応しているわけです。

「なんども確かめたくなるよ となりにいてくれるキミに合図!」
・・・これは最初は、コンテンツ側からユーザーに対して「課金継続の合図」を求めているものとばかり解釈していましたが、そんな浅はかな自分が恥ずかしいです。。。
恥の多い生涯を送って来ました。。。

ここのくだりは、次の段と続けて解釈するべきでしょう。

「Wonder sign 熱い喜びをまねくミライ いっしょに感じたい You're my friend
        キミとあつく動きだそう 急いできてよ ぐっと大きな夢をはじめよう」
・・・「Wonder sign」、これが、もはや「超越者の暗号を示唆していることは、ここでのこれまでの経緯を振り返ってみれば、尚更に闡明(せんめい)となったことでしょう。

・・・「キミとあつく動きだそう 急いできてよ」、これはつまり、超越者の側から私たちに「暗号の解読」を求めているわけです。そのことによって「ぐっと大きな夢をはじめよう」と、何やら「心地のよい強引さ」のようなものを以って、私たちに啓示を与えているのです。

Wonder zone 強い私へとなれるミライ」
「いっしょに見つけよう I'm OK!」


「Hi!はじめるよ(Wonder feeling) 
不思議だよ 最高の夢さ(Wonder feeling)」

つまり、この歌は、「超越者の暗号による啓示」と「実存哲学的飛躍の契機」を促すための
μ’s(女神)から私たちに対する贈り物だったわけです。たぶん。

私たちは、この「Wonder zone」という曲を、いわば「超越者の暗号」の形式によって贈与されたものとして受け取ることにより、また、その「暗号を解読」する行為によって、私たちは、「超越者の存在」を確認することが出来るのであります。

               「ね、めぐねえ♪」(ゆき)


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【参考】カール・ヤスパース(1883―1969)
について
白取春彦『この一冊で「哲学」がわかる!』より引用)

ドイツのオルデンブルクに生まれる。ハイデルベルク大学精神病理学と心理学を講義し、やがて哲学教授に転じるが、ナチスによって教壇から追われる。戦後はスイスのバーゼル大学で教授を務める。ヤスパースプロテスタントであったが、カトリックの影響を多く受けている。

主な著書に『哲学』『世界観の心理学』『現代の精神的状況』など多数。    
        
ハイデッガーナチスに「加担」したが、ヤスパースナチスに対しては鈍感だった。鈍感だったから無思慮に加担したのではなく、彼はドイツ国民を信用していたし、ナチスは一過性の嵐のようなものであると看過していたのだ。

やがて1935年春までに、ナチスはほぼ全大学に浸透し、多くの学者が解雇されていった。そして、ナチスの手はヤスパースにも迫り、1937年夏にハイデルベルク大学の教授職を罷免されることになる。理由は妻がユダヤ人だったからである。

その頃、時世に敏感な学者や芸術家らはとっくにアメリカなどに亡命していた。ヤスパースは対処が遅かったのである。ヤスパース夫妻を救おうと各国から招聘(しょうへい)の努力が行なわれるが、どれもうまくいかない。

(中略)

ナチスから非国民とハンコを押されることは、確実な死の脅威にさらされることだった。しかし、ヤスパースは妻と離婚すれば、この脅威から逃れられるのである。同様のことは、ヤスパース夫妻だけでなく、当時の多くのドイツ人夫妻にも起こっていた。

この頃の逼迫(ひっぱく)した状況でのヤスパースの日記は痛ましく、かつ彼の品性の高さに満ちている。

恐怖に震えながら自殺を考え、内なる声を待ち望み、なお哲学的真理に触れることを望んでいるのである。そして、枕許には青酸カリが置いてあった。

世界に死が満ちている中で、ヤスパースは震えているだけではなかった。研究を続行したのである。60歳の誕生日には思いがけなく日本の教授らから祝電が寄せられた。これはことのほか嬉しかったと彼は述懐している。

1945年、夫妻の収容所送りが決定された。だが、その予定日の約2週間前に米軍がハイデルベルクを占領し、ヤスパース夫妻は危機を逃れることができたのだった。

(中略)

人の命は意味を持たなければならない。ヤスパースは友人への手紙にそう書いた。