【ラブライブぐらし!】「純粋経験」について語る回(分割版その1)
8月も、そろそろ終わりになりました。自宅の外では、さっきまでツクツクホーシが傍若無人の勢いで絶叫していました。
自分の趣味では、9月の繁忙期を過ぎた高原が好きです。・・・どうでもいいことですね(笑)
皆さまにおかれましては、いかがお過ごしでしょうか?
前回の記事は、3つの話題をひとつにまとめたので、大変長くなってしまいました。。。
自分でも読んでいて苦痛に思ったので、「短い版」に分割して再アップです(笑)
で、これは言い訳ですが、今は小説みたいなものを書いていまして、そっちの執筆の方に力を入れたく、それから、仕事をする経済的環境を整えるための仕事も、そろそろ再開するので、ブログの方は疎かになります。。。申し訳ございませんねえ(^^;
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前々回(8月2日公開)の記事では、にこちゃんが鏡を見て自分が天使に見えたことについて、「純粋経験」という概念を強引に引っ張ってきました。いわゆる「牽強付会」というやつですか(笑)
「純粋経験」というのは哲学用語で、西田幾多郎の『善の研究』に詳しく書かれています。私としましては、再び『善の研究』を読み返すのは面倒くさいので、趣味のブロガーなので、などを言い訳に、とりあえず下にある記事の引用で間に合わせておきます。あしからず(^^;
【日本大百科全書(ニッポニカ)の解説】
純粋経験
じゅんすいけいけん
pure-experience
この純粋意識を基礎に置く哲学には、マッハおよびアベナリウスの経験批判論、ジェームズの根本的経験論、ベルクソンの純粋持続の哲学などがあげられる。これらは実証主義から形而上(けいじじょう)学までその立場に違いはあるものの、新カント派などにみられる主知主義的傾向およびデカルト以来の物心二元論に対する根本的な批判の姿勢を有することにおいて軌を一にする。
とくにジェームズは、純粋経験をもっとも基本的な実在としてとらえ、いっさいの観念や理論をこの直接所与、多即一の流動的実在から説明しようと試みた。
わが国では西田幾多郎(きたろう)が、ジェームズや禅仏教の影響下に、主客未分、認識とその対象とがまったく合一した意識状態を純粋経験と名づけ、それを自己の哲学の出発点に据えた。
[野家啓一]
『W・ジェイムズ著、桝田啓三郎他訳『根本的経験論』(1978・白水社) ▽西田幾多郎著『善の研究』(岩波文庫)』
これを自分なりの解釈で、ざっと言ってしまえば、「虚心坦懐の状態で見えたもの、聞こえたもの、そういうものが真理の始まりで、哲学はそこから始めよ。」みたいな感じですか。
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「純粋経験」と「直観」は、たぶん、似たような内容を指しているのかな、と思います。
「直観」は、文字どおりに解釈すれば、(世界を)「直に観る」ということで、そこにおいて「世界のありのままの姿」「世界の真実の姿」が顕現される、つまり対象を「直観」した刹那において「イデア」を目の当たりするみたいな、個人的には、そのように思いました。
そこには、われわれの通常の認識の主体である意識レベルよりもさらに深層の無意識のレベルまでを含めた「観察力の極み」みたいなものを感じます。
「直観」する能力は、科学上の重大な発見とかでも大切なことですよね。
ニュートンが、リンゴの実が木から落ちたのを見て、万有引力の存在を直観した、みたいな。
物事から何かを「直観」する能力は、言い換えれば、何かを「発見」する能力でもあり、ここから得られた何かは、意味や価値の源泉となるものだと思います。
いわゆる「セレンディピティ」みたいなやつですか、これは。
ネットの記事から「直観」について、ちょっと当たってみましょう。
【大辞林 第三版の解説】
ちょっかん【直観】
【日本大百科全書(ニッポニカ)の解説】
直観
ちょっかん
Anschauungドイツ語
intuition英語
いかなる媒介もなしに直接に観(み)る働き、あるいは直接に観られた内容をいう。直観はそれがどうとらえられるかによってさまざまな意味をもつ。
(1)認識の素材を与える感性的直観。感性的直観が個別的なものに直接にかかわり、思考がそれを思惟(しい)し、普遍的なものの認識が生じる。カントにおいて対象の認識の条件として直観と概念が語られるのはこの意味である。
(2)認識の最高段階としての直観。プラトンにおけるイデアの直観、スピノザにおける直観知は、すべての感性的経験、悟性的思考を超えた、真実在をとらえる直観である。
(3)認識の基礎にかかわる直観。いかなる推論にも媒介されず、推論の基礎をなす原理をとらえる直観であり、たとえばデカルトにおける明証知はこの意味での直観である。またシェラーの実質的価値倫理学は、感情によってア・プリオリ(先天的)な実質的価値を直観する感情的直観主義である。
(4)対象との合一としての直観。いかなる媒介もなしに、という直観の性格は、観るものと観られるものとの対立を止揚し、両者の合一へと達する。ベルクソンにおいて、対象と合一する直観によってのみ、世界の内的本質である生命の躍動がとらえられるとされる。神秘主義における神秘的直観は絶対者との合一を可能にするといわれる。
[細川亮一]
というわけで、にこちゃんの、すっとぼけた発言の真相は、おそらくこのあたりに求められるべきなのでしょう(謎理論)
一般に「予感」「第六感」「勘がいい」「女の感」などといわれる、あの頭に「ビビーッ」みたいな感じが走って気配とかを見抜くようなアレは「直感」の方で、「直感」と「直観」は、そのへんの違いを区別することが大切かと思います。
・・・くれぐれも誤解しないでいただきたいのは、これは「直感」と「直観」との優劣関係を述べているつもりではないので、念のため。
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お盆を過ぎた頃に、このような記事を読みました。
この記事で、高橋さんが洗面台で長男の歯を磨かせている時に、鏡の中に亡父の姿を見て、それからいろいろと思索を巡らせるくだりは、これはおそらく「純粋経験」的な体験について示していると解釈しても差し支えないだろうと思います。
「純粋経験」を契機に、真理の探求に目覚める。その分かりやすい事例ではないかと思います。
これは良い記事なので、ぜひ一読されることをお勧めします。
余談ですが、8月の下旬に入った頃、ニコ生でアニメ『がっこうぐらし!』1話~6話振り返り上映会を観ました。
「ゆきビジョン」と「めぐねえ」のことで、なぜか、上にある高橋源一郎さんの記事を思い出しました。
今は8話目が終わったところですか。
なお、このアニメはリアルタイムで絶賛放映中なので、これ以上の詳細には触れません。。。
(言い訳)
・・・次回(分割版その2)に続く