【読書感想文】ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(第5章)について語る回〈前編〉

ハロー、エブリワン。皆さん、こんにちわ。(^o^)

初夏の季節になりました。こっちではツツジの花はすでに見頃を過ぎてしまったようですが、それはそうと、唐突ながら「恋の喜び咲かせます! AZALEAです♡」
 ♥函館UCのステージが観れて感激です(^^♪ おつかれちゃん(⋈◍>◡<◍)。✧♡

「GALAXY HidE and SeeK / INNOCENT BIRD」がリリースされてからそろそろ1年になろうとしているわけですが、それにしても、時が経つのは早いですね(^^;
    
この曲については、公式では「恋をモチーフにした曲」とは言っているものの、歌詞の趣旨はかなり『デミアン』と相通じたりして、それでまた『デミアン』第5章のタイトルは「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う」ということで、楽曲と文学作品を共に鑑賞すると、双方における作品世界がより味わい深く・・・そういった相乗効果が期待できるかもしれません(^ω^)

デミアン』は今から100年ほど前の作品ですが、現在にしてもなお、われわれ「非リア充オルタナティブな変人ども」に対して重要な意味をなすような、われわれの技量では相対化・表象化できるまでには至らず、そのモヤモヤで苦しめられているような事象を概念化・可視化させて、われわれの「終わりなき日常」を援護してくれる記述が豊富なので、まだ読んでないなら、早いこと読んでおいた方がよいでしょう(^o^)

自分を見失わずに「世間」という名のゴーストとうまくやり合うための方法論や知恵を授けてくれるところが、この作品の良い所でしょう。

われわれにとって「世間」とは、確かな基準では絶対にあり得ず、多様性のうちにある一つの類型に過ぎません(←ここ重要)

世の中には、周囲に自由でのびのびとした気風をもたらすことを使命とした、そういう人たちが有名・無名にかかわらず存在していたりして、またそういう役割が天職となってしまった人たちは、権威主義ルサンチマンと格闘しなければならない運命にあったりします(;´Д`)

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では、第5章「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う」の講読に入りましょう。

今回も前回と同様、本文を引用して、それに対して「ああだ、こうだ」と単なる個人的な趣味の主観的な講釈を垂れるだけの漫談形式のスタイルで進めていきます(^o^)

前もって言っておきますと、今回の記事も自分のための思考ノートみたいな内容なので、読者諸賢におかれましてはひたすら退屈なだけかもしれません。アクセスしてくれただけでもありがたいことです(´ω`)

気の赴くままに記事を作っていたら、いつの間にか、ずいぶんと長ったらしくなってしまったので、今回は〈前編〉と〈後編〉に分けます(^^;

【前回の『デミアン』~あらすじ】
高等中学校に進学することになって郷里を離れ、寄宿舎生活を始めたシンクレール。

入学早々にして彼はクラスで浮いた存在になり、一人孤高を気取っては味気ない青春の日々に甘んじていたものの、そうした生活がしばらく続いたある日、ひとり公園を散歩している時にアルフォンス・ベックという上級生にばったりと出くわしました。

ベックから酒宴の誘いを受けたシンクレールは、そこで酒の味を覚え、以後、呑み仲間と一緒にドンチャン騒ぎをしては空虚感を紛らす、そんな日々を送るようになるのでした。

アルコールの力を借りて麻薬的快楽に耽溺しているうちにシンクレールの生活は次第に荒んだものとなって、級友や先生たちからも愛想を尽かされ放校寸前の状態にwwwww

ある春の日、頽廃(たいはい)の日常と展望の見えない未来に絶望しながら公園を散歩していたシンクレールの前に、一人の美少女が通り過ぎました。

彼の内なる生命が彼を危機から救い出すためにそうさせたのか、シンクレールは彼女の姿から強烈なインスピレーションを授かり、それを手掛かりに彼は自らの荒廃した生活を再建しようと一念発起します。

シンクレールはその少女に近付くことには失敗したようですが、しかし彼は彼女から並々ならぬ聖性を感じ取ったらしく、「ベアトリーチェ」なる名称まで与え、彼女を「聖なるもの」として崇拝することで、彼の新しい生活における心の拠り所とするのでした。

彼の「自己意識の変革」の行動は、やがて絵画を習得する形で具体的に実装されることで収束していきます。

シンクレールは礼拝の象徴として「ベアトリーチェ」の肖像画を描きました。
そして、彼の「ベアトリーチェ像」は、彼にいくつかの啓示を与えたのでした。

これらの過程を経ているうちに、シンクレールはデミアンに対する憧れを再び強くします。

彼はデミアンに関する記憶を丹念に回想して、そうしてある一つの場面にたどり着き、それを絵画で表現し、その作品を久しく会っていない盟友デミアンに宛てて発送したのでした。

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それでは、ここから【今回の『デミアン』】スタート(^o^)/

 描かれた夢の鳥は発送されて、私の友をさがした。不思議きわまる方法で返事が来た。

                (中略)

 私は紙をもてあそびながらなんの気なしに開くと、中に少しばかり文句が書いてあった。私はそれにまなざしを投げると、一つのことばに吸いつけられ、驚いて読んだ。私の胸はひどい冷気をあびたように運命の前に縮みあがった。

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、
一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」

          ♥よしこ:「私の羽を広げられる場所はどこ!?」♥

シンクレールが描いた猛鳥の絵は、すでにデミアンがフラグを立てていたような感じもしなくもないですが、その鳥は「アプラクサス」という神に向かって飛んで行くらしい(・ω・)

シンクレールは「アプラクサス」に関する知識を何も持ってはいませんでしたが、学校の授業でドクトル・フォルレンという若い新米助教師の指導の下でヘロドトスを講読していた時に、もっけの幸いで、これについて知る機会を得ました。

「われわれは古代のあの宗派や神秘的な団体の考えを、合理主義の観点の立場から見て素朴に見えるように、それほど素朴に考えてはならない。古代は、われわれの意味での科学というものはぜんぜん知らなかった。そのかわり、非常に高く発達した哲学的神秘的真理が研究されていた。その一部から魔術と遊戯とが生じ、しばしば詐欺や犯罪になりさえした。しかし魔術でも高貴な素性と深い思想を持っていた。

  ♥このノートは大学の文学部で哲学や文化史を専攻したら、使う日が来るかも!?♥

ドクトル・フォルレンは続けます。

 さっき例にひいたアプラクサスの教えもそうであった。人々はこの名をギリシャの呪文と結びつけて呼び、今日なお野蛮な民族が持っているような魔術師の悪魔の名だと思っているものも多い。しかしアプラクサスはずっと多くのものを意味しているように思われる。われわれはこの名をたとえば、神的なものと悪魔的なものとを結合する象徴的な使命を持つ、一つの神性の名と考えることができる」

ドイツの超進学校では、よしこさんの好きそうな授業をやっていた???

               ♥よしこ:「ギラン!」♥

それはともかく、シンクレールの関心はこの点にあったらしいです(・ω・)

「神的なものと悪魔的なものを結合する」。そのことばがあとまで私の耳に残った。

               (中略)

――さてアプラクサスは、神でも悪魔でもある神であった。

まずは、これがシンクレールの内面的な関心事(その1)となります(^ω^)

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次からは、シンクレールの内面的な関心事(その2)の記述となるようです。

 ある期間、私の心をあれほど深く占めていたベアトリーチェの姿はしだいに沈んでいった。というよりは徐々に私から遠ざかって、だんだん地平線に近づき、幻のようにかすかに薄れていった。それはもう心を満足させなかった。

         ♥のぞみ:「うちは満足やで♡ 次は焼肉行こな♪」♥

ラブライブ!サンシャイン!!」1期OPの、ここのシーン。光に包まれた9人の姿については、
1期の時は「あれはμ’sに違いない」という話から、2期が終わる頃には「あれはAqours自身の姿だったのだ」と解釈が変わったりしました。
デミアン』第4章で、シンクレールが自分で描いた「ベアトリーチェ像」に自身の姿を見た場面がありましたが、これは、上述したことと同様のことだったのかもしれません(´ω`)

それはともかく、シンクレールの精神的な成長はもはや偶像崇拝的な「信仰ごっこ」では飽き足らなくなって、もっと本物の信仰を求めるようになった・・・そういうことですかね!?

 私は、独特に自己の内にかいこのように閉じこもった生活を夢遊病者のように営んでいたが、いまその中に新しい形成が生じ始めた。生へのあこがれが私の中によみがえった。むしろ愛へのあこがれと、しばらくのあいだベアトリーチェ礼拝の中に溶かし去ることのできた性への衝動とが、新たな形と目標とを要求した。相変わらず実現にはいたらなかった。

リビドーをカセクシスする対象を見失って、彼のエロス(生の力)が路頭に迷っている???

僕が大昔に通っていた高校は自称「進学校」みたいな学校で、その当時は教室で「4日も溜めたらガマンできんわ!」などといった会話がクラスメイトたちと普通になされていましたが、100年前の超進学校の生徒は、何というか、もしかして意識高い???

 あこがれをまぎらすこと、――私の友だちたちは少女に幸福を求めたが――少女たちからなにかを期待することは、私にはいつよりも不可能だった。

 私はまたひどく夢を見た。しかも夜よりも昼しきりに夢を見た。さまざまの観念、形やあるいは願望が心にわいて来、私を外面的な世界から遠ざけたので、私は現実の環境とよりは、心の中のこれらの形や夢、あるいは幻と、より現実的により活発に交わり、かつ共に生きた。

ヘルマン・ヘッセという人はノーベル文学賞まで受賞したとても偉い作家さんですが、そんな肩書よりは、非リア充の実情をこれほど巧みに描写してしまう実に親愛なる小説家なのでありました(´ω`)・・・しかもこれ、100年ほど前の作品!( ゚Д゚)

上の引用の文章を、もっと現代風に分かりやすく言うと、つまりこういうことですね!(^o^)
        ♥のぞみ:「彼女が欲しいん? うちでガマンしとき♡」♥

シンクレールの内部に溜まっていったリビドー(心的エネルギー)やエロス(生命エネルギー)は、彼をして次のような夢を見させるのでした。

 一定の夢、言いかえれば、繰り返しやって来る空想の戯れが、私にとって深い意味を持つようになった。その夢は私の一生を通じて最も重要な持続的な夢であったが、ほぼつぎのような内容だった。私は父の家に帰った。――家の門の上に紋章の鳥が青地に黄色く光っていた。家の中では母が私を迎えてくれた。――私がはいって行って母を抱こうとすると、それは母ではなくて、ついぞ見たことのない大きな強そうな人物で、マックス・デミアンと私の描いた絵と似てはいたが、また違っていた。

 強そうではあるが、まったく女性的だった。この人物が私をひきつけて、ぞっとするような深い愛の抱擁に私を抱きとった。歓喜と戦慄とがいっしょになり、その抱擁は神へのお勤めであると同時に罪悪であった。母への記憶、友人デミアンへの記憶が、私を抱いている人物の中にあまりに多くただよっていた。その抱擁はおよそ畏敬の念には反したが、やはり幸福であった。たびたび私はこの夢から深い幸福感をもって、また恐ろしい罪からのように死の恐怖と良心の苦しみとをもって目ざめた。

「強そうではあるが、まったく女性的だった。この人物が私をひきつけて、ぞっとするような深い愛の抱擁に私を抱きとった。……」

そうですか・・・(・ω・) これはつまり・・・
               ♥かなん:「ハグ、しよ。」♥

そういえば、太宰治の『斜陽』という作品に「戦闘、開始。」というフレーズが繰り返し登場してきましたね!(←だから、なんなんだ!?)

この期に及んで、シンクレールは「果南ちゃん推し」に寝返ったようです???
             ♥トリコリコ~(⋈◍>◡<◍)。✧

      ♥えり:「シンクレール! あなた、、、裏切ったわね。。。」♥

ここで余談です。つい最近のことです。とあるコンビニで買い物をしていて、お菓子売り場のある陳列棚と陳列棚の間の狭い通路をボーっとしながら歩いていたら、正面からセーラー服姿の小柄な女子生徒がやってきて、ぶつかりそうになりました。

その時は「ああ、ごめんなさい」とか言って彼女をよけましたが、彼女が自分の前を通り過ぎていく間に起きた心の声は「わ、何この子? なんかいい匂いする♡」だったりして、自分の娘みたいな年頃の女の子にそのような感情を抱いて、軽く良心の呵責(りょうしんのかしゃく)を覚えたのでした。。。

というわけで、女子高生のいい匂いがしてきそうな画像でも貼っておきましょう(^o^)
       ♥海よりも深く、空よりも高く(←何が言いたいんだ!?)♥

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ここに来て、シンクレールの内面的な関心事(その1)と(その2)が統合に至るようです。

 このぜんぜん内面的な幻像と、自分の求める神についての外部からの暗示とのあいだに、ようやく徐々に無意識的に連絡ができあがった。それはしかしだんだん密接になった。私は自分がこのほのかな夢の中でアプラクサスに呼びかけたのを感づきだした。

次の引用文については、どのようなアプローチで講釈を垂れるべきか悩ましく思いましたが、
「愛」という言葉に着目すると、ここはキリスト教道徳と対比させて解釈を試みるのが妥当なように思われます(・ω・)

 歓喜と戦慄、男と女が混じ、最も神聖なものと最もいとわしいものとがもつれあい、このうえなく柔らかい無邪気さの中に深い罪がけいれんしている――私の愛の幻像はそういうふうだった。アプラクサスもそういうふうだった。

 愛はもはや、私がはじめ悩ましく感じたように、動物的に暗い衝動ではなかった。それはまた、私がベアトリーチェの姿にささげたような、敬虔に精神化された崇拝でもなかった。愛はその両者であり、さらにそれ以上であった。それは天使と悪魔、男と女とを一身に兼ね、人と獣であり、最高の善と極悪であった。

 これを生きることが自分の持ちまえであり、これを味わうことが自分の運命であるように思われた。私はこの運命に対してあこがれを持ち、また不安をいだいた。しかしそれは常に眼前に存在し、常に私の上にあった。

「…それは天使と悪魔、男と女とを一身に兼ね、人と獣であり、最高の善と極悪であった。」

ここで何かキャラクターの姿を想像してみるのも面白いかもしれません(^ω^)

・・・しかし、それをやってしまうと、、、

「これを生きることが自分の持ちまえであり、これを味わうことが自分の運命であるように思われた。……」

・・・これが言っていることの意味が、分かりづらくなってしまいます(´・ω・`)

上の引用文の記述は、つまり、シンクレールにとっての「自分がそのために生き、そのために死ねるような真理」について書かれているものと解釈するのが妥当でしょう。

幼い少年だった頃のシンクレールにとっては、キリスト教道徳が彼にとっての「確かな基準」たりえたわけですが、しかしこの数年間において、そのことはすでに彼の中では相対化されてしまい、もはや絶対的な価値基準ではなくなってしまった。。。

幼い時分には「明るい世界」の価値観を教え込まれてきたものの、「暗い世界」もまた人間にとっての自然であることを自らの体験として知ることとなったシンクレールは、いつしか両者を統合する神を求めるようになった。アプラクサス。――アフラック生命ではありません。

彼にとっての新しい「確かな基準」がそろそろ形を持つようにまでなってきた。・・・ここで語られているのは、要は、そういうことなのでしょう。

第4章では、このへんの統合にまでは至らずに「草生えるwwwwwww」な奴だったのに、おまえも成長したのう。あっぱれ、あっぱれ(´ω`)

それはさておき、「自己の探求」「自分が自分自身になる」・・・それはつまり、自己の精神に「確かな基準」が構築されていき、それが内面化されていくプロセス・・・そのように解釈することができるでしょう。

「これこそが自分にとっての真理だ!」・・・人生において最も重要なことは、そういうものと出会えることなのでしょう。自己の探求は「真理の探求」(・ω・)

ヨーロッパでは、18世紀後半から20世紀後半くらいにかけて、大ざっぱに見れば教条主義」→「ロマン主義」→「実存主義といった思想潮流の変遷があったわけですが、『デミアン』は1919年の作品で、このへんの思想の流れが作品世界の根底をなしているように思います。

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シンクレールは「しるしを持つ者」(=変人)として、われわれにとって望ましい方向へと成長してくれているようです(^ω^)

 私はすっかりおとなになっていたが、まったくなすところを知らず、目的が立たなかった。ただ一つのもの、すなわち心の中の声、幻像、それだけはしっかりきまっていた。私はこの導きに盲目的に従うべき使命を感じた。しかしそれは困難だった。毎日私は反抗した。おそらく自分は狂っているのか、ほかの人たちとは違うのか、と私はたびたび考えた。

 しかし、ほかの人たちのすることは、私にもなんでもできた。わずかの勉強と努力でプラトンを読むことも、三角の問題を解くことも、化学の分析にくっついて行くこともできた。ただ一つのことだけができなかった。それは私のうちに暗く隠れている目標を摘出して、どこか自分の前に描き出すことだった。

「自己の探求」「真理の探求」を根気よく続けられる人・・・社会的には少数者ではあるとは思いますが、人類にはそういう人たちも確かにいる。またこういう人たちというのは、社会的・世俗的な成功とは別の意味において、学習能力と環境適応能力が意外とずば抜けていたりすることがあります。・・・シンクレールも、そういうの類の人種だったりする!?

生前は惨めな人生を送りながらも、死後になって歴史に名を残し、今もなお人類のために貢献し続ける、そのような「偉大なる人生の失敗者」・・・特に哲学や芸術の分野にはそういった類の天才がいて、彼らは失敗者にもかかわらず「人生の偉大な教師」だったりする。それは、いわゆる反面教師などではなくて、むしろ「本物の教師」と呼ぶに相応しい。

・・・「人間」って奥が深いなあ(´ω`)

しかしながらシンクレールは、彼自身の内に「確かな基準」が出来上がっていく途上において困難に陥っている模様です(´・ω・`)

 ほかのものたちは、自分は教授、あるいは判事、医者あるいは芸術家になるのだということを、またそれにはどのくらいかかるか、どんな得があるあるかということを、はっきり知っていたが、それは私にはできなかった。おそらく私もいつかそういうものになるだろうが、どうしてそれを知ることができるだろう。

 私は何年も試み続けねばならず、結局なんにもなれず、なんの目標にも達しなかったかもしれない。一つの目標に達したとしても、それは悪い危険な恐ろしい目標であったかもしれない。

 私は、自分の中からひとりでに出てこようとしたところのものを、生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難であったのか。

さて、ここで「自由な個人」なるものについて考えてみましょう(・ω・)ノ

言葉としては、お気楽な感じがして、われわれには羨ましい人間像のように思われます。

しかし、現実において「無制約的な自由」というのは存在しません。

虚構の作品において、これを具現化したようなキャラを描ききったとしても、エピステーメー(時代の知)による制約をすでに受けています。

われわれは「有」があって「無」を想像できるわけで、純粋な「無」というのを人は想像することができません。それと同じことで、われわれは「制約」があるからこそ「自由」の有難さが身にしみて分かる・・・ああ、働きたくないでござる(´ω`)

自然の摂理としては、「自由」は「責任」と表裏一体で、絶えず「不安」が付きまといます。
「不安」は忘れることはできますが、それでなくなるというわけではありません。

「不安」と上手く向き合えずに不幸になってしまった人たち・・・世の中には、そういった人たちもいます(´・ω・`)

1.「自由」には「責任」と「不安」が付きものだ。セオリーですね!(^o^)

「個人」・・・これは基本的には「孤独」な存在です。さみしい存在です。

「寂しさ」に対する耐性があまりに弱すぎると、「畜群」から独立することができず「個人」にはなれません。ヒト科の動物ではありますが、人間にはなれません。類人猿止まりです。

2.「個人」には「孤独」が付きものだ。これもセオリーですね!(^o^)

「完全に自由な個人」というのは原理的に存在し得ないわけですが、

3.「自由な個人」とは、「不安と孤独に耐えられる人」「自らの行動に責任が持てる人」

人によって程度の差はあれ、基本的には、これらの条件を満たしておく必要があるでしょう。

あゝ、人生とは、大いなる矛盾に他ならないのであつた。。。(;´Д`)

人生の根源的な矛盾は、「人間」が「世界」の中に居ながら、意識的には「世界」と分裂しているという点に起因するものだと思いますが、、また旧約聖書に出てくる「原罪」とは、おそらくこのことを指しているのだと思われますが、それはさておき・・・

シンクレールは「自由な個人」になることを目指している。そして彼が直面している困難は、自由の程度に応じて、「自由な個人」には必ず付いて回る性質のものである。
・・・ここでは、そういうことを考えました(・ω・)ノ

ここで余談ですが、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』は、サルから人間になることを切望している人たちにとっては必読の書でしょう。僕も読みました(^^;

自由からの逃走(じゆうからのとうそう)とは【コトバンク】

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 ベアトリーチェ時代のあの幾週、幾月かのあいだ続いたしんみりしたおちつきはとっくにうせていた。あのころ私はひとつの島に達し、平和を見いだしたように思ったのだが、いつものことで――一つの状態が好ましくなり、一つの夢が快く思われると、たちまちもうそれは衰え曇ってしまうのだった。それをくやみ嘆いても、かいのないことだった。いま私は、満たされぬ要求と緊張した期待との火の中に生きていた。それがしばしば私を完全に荒れ狂わすのだった。

発達心理学では、青年期は「反抗期」や「アイデンティティの危機」などを経験して、そうやって成長していくんだぞー、みたいな話で、シンクレールは「反抗期」は第4章で通過して、ここでは「アイデンティティの危機」の状態にあるっぽい!?

彼の中で「何かギラギラしたもの」が燃え盛っている・・・もう どうにも とまらない♫

 夢の愛人の姿を、私はたびたび極度にはっきりと、自分の手よりもずっとはっきりと眼前に見、それと語り、その前で泣き、それをのろった。私はそれを母と呼び、涙を流しつつその前にぬかずいた。私はそれを、悪魔、娼婦、吸血鬼、人殺しと呼んだ。それは私をこのうえなく柔らかい愛の夢とすさんだみだらなふるまいに誘った。それにとっては、よすぎるものも貴重すぎるものないと同時に、悪すぎるものも低級すぎるものもなかった。

    ♥100年前の道徳観では、こういうのは「すさんだみだらな」画像???♥

 あの冬じゅう私は、名状しがたい内心のあらしの中ですごした。私は孤独には長いあいだ慣れていた。孤独は私をおしつけはしなかった。私はデミアンハイタカや、自分の運命であり愛人であったところの大きな夢の人物の姿とともに生きた。その中を生きるのに不自由はなかった。なぜなら、すべては大きな広いものを見つめていたし、アプラクサスをさしていたから。

 しかし、これらの夢のどれもが、また私の考えのどれもが私の思いどおりにならず、どれをも呼ぶことができず、どれにも任意に色を与えることができなかった。夢や考えがやって来て、私をとらえ、私を支配し、私はそれによって生きているのだった。

「自己の探求」とは言いつつも、「自力」だけではどうしても超えることのできない壁が存在しているようで、彼もそろそろこのへんで限界!?

ここで、ヤスパースの『哲学入門』から次のことが思い出されたのでした。

1.哲学的生活態度は「孤独な思弁」と「交わり(Kommunikation)」からなる。

2.「真理は二人から始まるのです」

 いつも私は自分自身のことだけ没頭していた。しかしもういいかげんに、生活の一片を生き、自分の内部のなにかを世間に与え、世間と関係を持ち、世間と戦いたいと、切望した。

僕は休日の時間を利用して一銭の得にもならないこんなクソ記事などを作っては公開しているわけですが、どうしてわざわざそんなバカなことをやっているのか!?

上に掲げた引用文から、その理由が分かるような気がします(´ω`)

 おりおり晩、町を歩いて、おちつかぬままに夜中まで家に帰れないときなど、いまそこに自分の愛人がやってくるぞ、つぎの角を通りすぎるぞ、つぎの窓から呼びかけるぞ、と思うことがよくあった。しかしおりおりまたそういうことがすべて耐えがたく苦痛に思われることもあって、みずからいのちを断とうとさえ決心した。

おいおい、こんなところで「思考停止」なんかするなよ。安易な合理化で逃げるのはダメだw
おまえさんには、さらにこれから「判断停止」の領域まで突き進んで行ってもらって、そこで見えたものをわれわれに知らせる使命がある。

思うに、この作品が100年にもわたって読み継がれているのは、読者たちによってそのことが期待されているからではないでしょうか(^ω^)

こうして煩悶して苦悩して、燃え盛る煩悩の炎の渦中に迷えるシンクレールではありますが、そろそろ彼にも「他力」の風が吹く時がやって来るwwwwww(つづく)

      見つけなきゃきっとー♪ こころ通じあうー 人よ待ってますかー♪
             ah~♪ 出口は~ 近いの♫ 

     その時までー♪ 閉じーこーもーってぇ♪ 小さな 卵の中なのよ~♫

それでは、また次回の記事でお会いしましょう。さいなら、さいなら、さいなら(^^)/~

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ここからは「投稿者贅言(とうこうしゃぜいげん)」の時間です(・ω・)ノ

あまり面倒くさいことは考えずに、適当にいきますよー(^o^)

デミアン』を読むにあたって――そうでなくても、以下に挙げた概念は、われわれが人生を生きていく上で有益な示唆に富んでいるものと思われます(^ω^)

1.キルケゴール「実存の3段階」
これは、「実存」とは「美的実存」→「倫理的実存」→「宗教的実存」のホップ・ステップ・ジャンプのプロセスを踏むという、そういう話です。

自分から説明するのは、もう疲れてきたので、それに関する良記事のリンク先を貼っておきましょう。

センター試験にキルケゴールの実存への3段階【グーグーパンダが語る 生きる目的】

     『たとえ全世界を征服し、獲得したとしても、
              自己自身を見失ったならば、なんの益があろうか』

記事の中に、このようなキルケゴールの言葉が登場してくるわけですが、これは『デミアン
と相通じるものがありますね!(^o^)
               キルケゴール(1813~1855)

2.ニーチェ「三段の変化」
これは『ツァラトゥストラ』の最初の方に登場する概念で、人間の精神が「駱駝」→「獅子」→「赤子」のホップ・ステップ・ジャンプのプロセスを踏むという、そういう話です。

三段の変化

「駱駝」→「獅子」→「赤子」のプロセスは、ニーチェ自身の経験を比喩的に言い表したもので、彼が学者から哲学者に転向する過程を示したものと解釈しますが、これはまた、誠に恐縮ではございますが、「役所勤め」→「ニヒリズム研究」→「こんな一銭の得にもならない記事をシコシコと作っている」という自分の遍歴にそのまま適応できたりもしてwwwww

・・・おれの守護霊には、きっとニーチェさんが憑いている(笑)

そういえば、引用には掲げませんでしたが、シンクレールがニーチェの愛読者であることが、たしか第4章で書かれていましたwwwww
                ニーチェ(1844~1900)

上に挙げた二つの概念を一つにまとめた記事も見つけたので、とりあえずリンク先だけ貼っておきましょう(^ω^)

精神の三段階

キルケゴールの次世代にはニーチェがいて、『デミアン』の著者であるヘルマン・ヘッセは、ニーチェの次世代に活躍した人のようです。
              ヘルマン・ヘッセ(1877~1962)

ヘルマン・ヘッセの同時代にはヤスパースがいました。
               ヤスパース(1883~1969)

ヤスパースの実存哲学においても、基本的な骨子は「現存在」→「可能的実存」→「実存」のホップ・ステップ・ジャンプのプロセスを踏んでいて、キルケゴールニーチェの場合もそうでしたが、この「自己意識の変革」プロセス――人生の「Hop! Step! Jump! Project!」は、
「ホップ」→(覚醒)→「ステップ」→(飛躍)→「ジャンプ」であって、この過程においては、必ず「覚醒」「飛躍」を伴っているわけですね!(^o^)

ちなみに、「飛躍」はもっと厳密に言えば「内的飛躍」ということになります。

内で起こっていることが表に現われるまでには、それ相応のタイムラグがあるかと思います。
この拙記事にしろ、着手してから公開するまでには、それ相応の工数(時間×労力)がかかっているわけです(笑)
    
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僕がヤスパースを知ったきっかけは、自分で言うところの「ニヒリズム研究」時代の真っ只中にあった頃のことでした。

当時、自分は京都で暮らしていて、京都駅地下街「ポルタ」にあった書店の店頭で『この一冊で「哲学」がわかる!』(白取春彦 著:三笠書房)という本を偶然に見かけて、何となくそれを手に取って目次のところをパラパラとめくって見ていたら、「苦しみのどん底で真理の声を聴く」という小見出しが目に留まりました。

その時は自分も、シンクレールがああやって苦悩していたのと似たような状況にあって、――だから『デミアン』が面白いんだけどな(笑)――それで、その哲学の入門書を購入しました。

ヤスパースの著書で読んだのは『哲学入門』と『哲学』(「哲学的世界定位」「実存開明」「形而上学」の三巻)だけで、『哲学入門』は独学でも何とか理解できたつもりですが、『哲学』の方は読んでいても何が書いてあるのか、さっぱり分かりませんでしたwwwwww

ただこの人をスゴいと思ったのは、われわれの普段の日常的な事柄をネタにして、それを似非意識の高い人がするように勿体つけて話すのではなく、深く掘り下げて語っているところで、そこはやはり「哲学者」で、またこの人に「本物の知識人」を見たような気がしました。

以下の引用は『哲学』(「実存開明」)から、自分でも内容がそれなりに理解できたと思われる唯一の箇所で、今回の拙記事とも関連の深そうな記述があると思われるので、長ったらしいですが、あえて掲載しておきましょう(・ω・)ノ

 かくして見渡しがたい多様性をもって、主観としての人間が、客観的な形態となる。この形態は、模範像としてか、あるいは対照像として、自己の可能性としてか、あるいは疎遠な現実性として、要求しつつ引きつけるものとしてか、あるいは誘惑しつつ堕落させるものとして、単独者がそれに従うか拒むかする仕方で自己把握を行なうその空間を、満たしている。

 私の自己存在は人間を観ることによって目覚まされることを欲するから、それらの形態の多様性は私を落着かせない。その多様性は、私にとっては、平凡な大衆と自主的な少数者とに分けられる。しかし、どのようにうまく構想してみたにしろ、こうした分け方のいずれも、抽象的な可能性にすぎない。

僕が記事で度々使用する「平凡な大衆」と「自主的な少数者」の二分法は、実はここから拝借してきたものなのでした(^^;

次の引用は「平凡な大衆」のステレオタイプを記述したものですが、自分にもいろいろと心当たりがあったりするの普遍性wwwww

 私は、何らか一般的であるような人間の像を思い描く。その人間像は、これを容認しようとしまいと、とにかく私に、社会的現存在という一般的なものを媒介として、私がかれと交渉する仕方に対する理由を、与えてくれる。すなわち、その人間像によれば、人間は、子供から大人になり、労働する。だがそれも笞とパンによって駆り立てられてである。そして、自由に放任されると、怠惰で享楽的である。そうした人間の現存在は、食うこと、交合すること、眠ることであり、これらのものが不十分な程度にしかできないときには、その現存在はみじめなものとなる。かれは、機械的な、習い覚えられる労働以外のことをする能がない。かれは習慣に支配され、さらにはかれの仲間の間で共通の意見と認められるものに支配される。かつまた、かれを支配するものは、かれの不足した自己意識の埋め合わせを求める権勢欲である。かれの意志と行動の偶然性において、運命に対するかれの無能力が顕わになる。過去のものは、迅速に、そうでもいいものとして、かれから逃げ去る。かれの予想は、最も手近なものと極めて大ざっぱなものにしか及ばない。かれは自分の生活を深く知らず、心得ているのは在り来たりの日常事だけである。かれの魂をすみずみまで霊気あるようにする信仰は何もなく、かれにとっては、盲目的な現存在欲と幸福を求める空虚な衝動との他には、何ひとつとして無条件的なものはない。かれが機械労働をしているにせよ、あるいは科学的作業に協働しているにせよ、またかれが命令するにせよ、あるいは服従するにせよ、またかれがどこまで食いつないでゆけるか分からずに不安がっているにせよ、あるいはかれの生活が安定しているように見えるにせよ、とにかく依然としてかれの本質は同じである。諸々の状況や偶然的な傾向によってあちこちとゆすぶられて、絶えずかれは、自分と同様な者たちの近くにいようとする衝動に駆られているにすぎない。共同体の内に基礎をおいた持続性ももたず、人間同士の間の信義も欠いて、かれは、実体的な存在に重心をおく生活の進路がないその日暮らし的な人間としてとどまる。

このような人間像については、それに居直るようなことがなければ、基本的に反対したくなるのが人情であって、これは自然な流れwwwww

 このような人間像が、どの程度まで真実であるかは、経験によって決定されはしない。こうした外観を呈する世間一般の生活に現実が大量に現れるということは、争う余地がないし、また誰もがこうした可能性を、やはりそこから自分が救出されねばならない可能性とみなすということも、殆ど争う余地がない。しかし、たとえ観察や悟性が繰り返しそれを正当化するように見えるにしても、こうした人間像に賛成することに、われわれの内なるすべてのものが反対するという理由は、一体何であるか。

 それは、人間尊敬と自己尊敬との、および人間軽蔑と自己軽蔑との切っても切れない相関関係の存在である。私は、意識的にか無意識的にか、私の可能性について知っているのであるが、私が人間を見る場合もまた、そうしたものとして見るのである。しかし、心理学的かつ社会学的な観察が、無力になった諸理想をうちこわす場合、おそらくそれは、経験的なもの平均的なものを、標準的な正しいものへすり換えるだろう。つまり、人間が《現実において》そうあるところのものをもって、また同時に願わしいものだとすることが、本来的な人間性である。それ以外のものは、不正直な理想主義であって、それは自らの目的のために狡猾にも人を騙して、その生活の享楽を奪い取ろうとするものだ、ということになる。

しかし哲学者は、さらに思考を推し進めて語ります。

「それは、人間尊敬と自己尊敬との、および人間軽蔑と自己軽蔑との切っても切れない相関関係の存在である。……云々。」

上の引用にある次の文章は、普段の日常生活の中で注意して見ておくと、いろいろと発見することがあるかも知れません(^ω^)

「……経験的なもの平均的なものを、標準的な正しいものへすり換えるだろう。」

「平均的なもの」と「標準的なもの」の区別ができることは「真理探究」の素質に関わる事柄でもあります。たぶん。

 しかしながら、人間を観るにあたって、私が自らを可能的実存として自覚し、その自覚においてなお自分で自己自身に決断を下すとするならば、そのとき私は、私が有する平均的人間像に対し、必然的に、人間的偉大さの形態として非凡なものを対立させざるをえない。そしてこの形態は、私が自らを堕落させるようなおそれのあるときは、私をば自分の道を踏み外さないように導くものである。しかしそのときには、私はまた、いかなる個人も、表面上は外部から平均人に見えるような、そうした存在であるとは信じない。むしろ私は、なお可能性に訴えることができる。そのとき、私は、私が人間から期待するものが、決してどうでもいいものなのではない、ということを経験する。私自身、他人が私から期待するものに、依存している。人間についての期待は、人間の現実の要因である。人間が人間に向かい立つのは、或る事実的に決定的な現実に向かい立つといったものでは決してない。しかし若干の人間だけが私に可視的となるのは、平均人としての私に対して強いられる期待とは異なった期待をもって、私がかれを迎えるからに他ならない。

上の引用は、全くもって『デミアン』ですね!(^o^)

デミアン』は、自らを「可能的実存」と自覚した、すなわち「覚醒した人」たちにとっては大変に面白い作品ですが、「現存在(平均人)」にとどまったままで、それで良しとしている人たちにとっては、たいして訴求するものを持たないのかもしれません。。。

 私が人間から期待するものに関し、私自身が自分にとって、規準となるように、私にとってはまた、最高級の人間が、私にとって可能であり且つ可能であるべきものに関し、規準となるならば、私の自己存在は、生活のなかで具体的に私と出会う人間の実態によって規定されるし、かつまた、この根源的な経験に基づいて――もちろんこの経験はやがて次第に色あせるが――過去から語りかけてくる人間の偉大さによって規定される。

上の引用によれば、「私の自己存在」は、今回の記事に挙げた人たちによって規定されると、つまりそういうことですね!(^o^)(←安直すぎwwwww)

 若い頃にあっては情熱的に、かつ生涯にわたって絶えず、私は、人間に注目する。私に話しかけ、私に応答した人々を通じて、私は、私自身であるところのものになる。しかし、私なりの本質と私の実存的衝動の力が生れるのは、わたしが人間的偉大さを知って、それに直面するときである。死者でさえもなお、その時々に応じて、私にとって生き生きとした仕方で現前したり、あるいは、しなかったりする。諸々の個人が私の内に生きている。それはあたかも、かれらがすすんで私に近づいてきて、畏敬の念を抱かせる人物として私に忠言を与えるかのようである。

上の記述はつまり・・・

千歌ちゃんなりの本質と千歌ちゃんの実存的衝動の力が生れる、決定的瞬間wwwwww
ラブライブ!サンシャイン!!」1期 #1 輝きたい!!・・・ああ、懐かしい(´ω`)
 ♥現存在「普通怪獣ちかちー」からスクールアイドルで可能的実存へと覚醒だ!(^o^)♥

 偉大な人間が本来いかなる者であるかは、どんな科学にとっても客観的に認識されないし、どんな理解力にとっても異論なく把握されるものではない。人間が把握されるかどうか、またどのように把握されるかということは、歴史的意識において変化を蒙っている。私がそのように話しかけられているときは、そこにはその都度ある個人が存在する。かれは、本質的にはもはや、一般的な類型でも、模範でも、精神の現実としての天才でもなくて、むしろつねに私にとって唯一の個人、まさにこの者にほかならない。


         ♥のぞみ:「そうやで。うちもおるよ。がんばりや!」♥