【読書感想文】ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(第5章)について語る回〈後編〉

皆さん、こんにちわ(^o^)

今回は、余談(Ⅰ)から。

まずは個人的な「生活のための労働」についてのネタです(・ω・)

現場が管理の方から製品の増産を命令されているとかで、GW明けから夜勤専従をやってほしいと頼まれました。その昔に夜勤のアルバイトや月残業140時間や3交代制の勤務とかもやったことがあるので、何も考えずに軽いノリで快諾してしまいました(笑)

夜勤の労働を久しぶりにやってみて感じたことは・・・一日の業務の終わり頃になると、どういうわけか無性に「牛丼」が食べたくなったりする――そういう日がたまにあります(´ω`)
       底辺労働者の小さな晩餐・・・牛丼(並盛)3点セットと瓶ビール

これまで「牛丼」も「すき家」も特に意識はしていなかったものの、別に好きになろうとか思ったわけでもないのに、いつの間にか好きになっていた。これはその、つまり……。
♥るびぃ:「な…なんなの? この気持ち……。ル…ルビィ、ルビィに教えてーーーっ!!」♥

        君により思ひ習ひぬ世の中の     
           人はこれをや恋といふらむ     

       かへし
         習はねば世の人ごとに何をかも
             恋とはいふと問ひし我しも  
                     
                      『伊勢物語』三十八段    

                ♥のぞみ:「好き」♥

         届けて
          切なさには名前をつけようか ”Snow halation

           急いで
            いつの間にか大きくなりすぎた ”True emotion”

           ちなみに、この子は2017年の ”ブルーリボン賞
   九州旅客鉄道 BEC819系交流架線式蓄電池電車(愛称名:DENCHA(デンチャ))
 かつて筑豊地区で活躍していたキハ66・67系気動車は1976年(昭和51年)の”ローレル賞

       ♥えも:「メッチャエモイネ! メッチャエモイネ! メッチャエモイネ! メッチャエモイネ!」♥

初っ端からオタク臭全開の私的な「愛すべき趣味の世界観」を開陳してしまいましたが。。。
かつての「プリパラおじさん」も今や「オジ☆チャン」となり・・・はい、次!(^o^)

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というわけで、余談(Ⅱ)です(^ω^)

読者諸賢におかれましては、ここは食事中には読まれない方がよいでしょう。
カレーライスとかだったら、なおさらです(・ω・)ノ

2018年5月19日(土) 晴れ

この日は、日々の労働の疲れを癒そうと思って、とあるサウナに行きました。

フロントで2時間入浴コース(1,400円)を選択。

ロッカーで「クロスアウッ!(脱衣!)」(←変態仮面かよwww)して、大浴場へGO!
ちなみに、この店舗ではフロントとロッカーと大浴場は同じフロアにあります。
                ※画像はイメージです

まずは体をキレイに洗って、それから大きな浴槽に浸かり・・・
          「あぁああぁぁ~極楽~~」(※画像はイメージです)

ひと風呂浴びてスッキリした後、上階にある居酒屋風レストラン(これもサウナの施設です)で鶏のから揚げを肴に生ビールをグーっとかやりながら「あー、今日はマッサージもやってもらおうかな~」とか、ぼんやりと思案していました。
   「世人曰く、”カプセル&サウナ”は大人の男たちのプレジャーランドらしいずら」

風呂上がりの生ビールを堪能してから、フロントのあるフロアにまた降りて来ました。

そこには喫煙エリアも設けられています。若干数ですがイスとテーブルが設置されています。ロッカーと大浴場の双方の出入口となる場所には、明治牛乳と缶ジュースの自販機がそれぞれ設置されていました。

喫煙エリアのテーブルには店のマッチ箱が置かれてあって、それを手に取るとマッチを擦って煙草に火をつけ、椅子に腰掛けて瓶入りのコーヒー牛乳を飲みながら、ちょっと一服。
テレビではアニメ「名探偵コナン」をやっていました。

その後、同じフロアにあるトイレに行って小便をして、次はフロントでマッサージを予約しておこうかとか考えながら、トイレを出ました。その時です。

トイレの出入り口の外側の方に片足を付けた時に、何かヌルっとするような感触を足の裏に覚えました。「何か変なものでも踏んだ?」と思って、立ったまま足の裏を見てみると……

「げーっ!! なんじゃこりゃーっ!? ウンコじゃーーーーっw(; ゚Д゚)」

どうやら、私は、素足でウンコを踏んずけてしまった模様ですw( ;∀;)

       ンコふんじゃったー ンコふんじゃったー♫ 
         ンコふんじゃーふんじゃーふんじゃったー\(^o^)/

        I'm so very sicking, Oh... I am so sickingなう(;´Д`)

そういえば、ウンコを踏んでしまう夢をたまに見ることがあります。これは悪夢の類に入るわけですが、夢の中ではたいていは靴を履いた状態で、素足で踏んでしまうのは、それはかつてなかったような・・・トラウマがまた一つ増えたかもな。。。(´・ω・`)

これがために、今までの極楽気分がキレイさっぱりスッ飛んで逝っちまったよ(´;ω;`)ウッ…

この、うんこテロの犯人は一体誰だ!? 姿を見せない卑怯者め!! 
こんチクショウ! このヤロー! くたばれクソッタレ!!!(←そのまんまやんwwww)

瞬間的に怒りの感情が込み上げてきて、そうしている瞬間に、この店の室内着であるガウンを着たお客さんがトイレの方にやって来たので、我ながら親切なことに、ほとんど反射的にその中年男性に一声かけました。

「出入り口のところに変なものが落ちているので、踏まないように気を付けてください!」
「え!? 何か落ちてるんですか!?」
「ウンコです。僕は踏んでしまいした(笑)」
「それは、ご親切にありがとうございます。あなたが言ってくれなかったら、私も踏んでしま
うところでしたよ。こりゃ、大変だ。店の人を呼んで来ましょう。」
「ありがとうございます。お願いします。」

こういった即座なやり取りを交わして、こっちはトイレの大きい方の個室を目指して、片足でケンケン足の体勢でピョンコピョンコしながら前方へと進みました。

大の方の個室は2つあって、幸い使用中は片方だけで、待つことなく便器まで辿り着くことができました。もし個室が2つとも使用中で塞がっていたら――そう思うと、ぞっとします。

大の個室に据付のトイレットペーパーで足の裏に付着したウンコを拭き取っている間に、白いワイシャツ姿の男性従業員がやって来て、現場の処置に当たっていました。

ここで血の気が多くて頭の足りない人だったら、この従業員を捕まえてクレームを垂れていたかもしれませんが、この件については店の方も被害者なので、そのような理不尽な振る舞いに出るわけにもいきません。とはいえ、こっちにもこっちの事情からして店の人に尋ねておかなければならないことがあります。

「あの、ウンコを拭いた足を洗いたいんですけど、どこで洗えばいいですか?」
「それは、大浴場の方で洗われてください。」

見た感じでは、この従業員の兄さんも焦って困惑しているような表情に思われました。
その場ではそのように答えるしかなかったのでしょう。

それでまた、ケンケン足でピョンコピョンコしながら、拭いた方の足は甲の方を床面に向けて大浴場まで進みました。足と手を石鹸で丹念に洗って、それでも不快な気分まで洗い流すことはできず、結局は首から下の全身を石鹸で再び洗ってから風呂場を出ました。
公共の場に対する良心から、あえて湯船には浸かりませんでした。ぼくちゃんえらい(^o^)

風呂を出た後、喫煙エリアで缶コーヒーを飲みながらもう一度一服して、気を取り直すように努めて、それからフロントでそそくさとチェックアウトを済ませました。
「マッサージしたい」の気分はすっかり吹き飛んでいました。

店を出た後、体はスッキリしたものの、後味の悪い不愉快な不快な気分が心に付きまとって、それがなかなか離れませんでした。

自分は被害者であり、店の方も被害者だ。マジ許すまじ糾弾すべきは、ウンコたれテロリストの犯人なのであり――「コ・ノ・ウ・ラ・ミ・ハ・ラ・サ・デ・オ・ク・ベ・キ・カ!」
                魔太郎がくるぞー!!(^o^)

あのクソ野郎が確信犯・愉快犯なのであれば、こやつを見つけ次第身柄を拘束し、略式裁判にかけて訴状を読み上げた後、総括リンチにて処刑・始末。亡き骸は三条河原で町衆の晒し者にしてくれようぞwwwww(# ゚Д゚)

とはいえ、犯人が過失犯だった場合は・・・これには情状酌量の余地が大いにあると言わざるを得ません。。。(´・ω・`)

楽しい予感に満ちていたはずの一日が体調の急変等によるウンコ漏らしのために、彼や彼女の黒歴史の新たな1ページとして更新されてしまう――これは全人類が普遍的に共通して抱えているリスクでもあって、なぜなら人間は排泄をしなければ生理的に生命を維持できない。

このような事態に遭遇してしまった場合は「人生は旅。旅の恥は掻き捨て。」・・・この標語の適用が許容される特殊で稀なケースであるとも言えるでしょう。

つまりは、これは人命に関わる問題なので、他罰的な者やサディストでなければ、なかんづく愛と平和と調和を標榜する正義と真実の探求者においては、このような哀れな人たちを単純に断罪することなど到底できるはずがないのだ(・ω・)ノ

しかしそうなった場合、犯人も含めて全てが「気の毒な人」になるわけで、僕ちゃんの、このやり場のない苛立ちは一体どこに向ければいいの???

そこにある種の「不条理」を感じないわけにはいかず、「善悪を知る人間存在ゆえに避けては通れない、どうにもならない悲哀」みたいなものを垣間見た気がしたのでした(´・ω・`)

本文では「理不尽」と「不条理」という単語が出てきましたが、両者のニュアンスの違いとかを解説した記事を見つけたので、参考までにリンク先を貼っておきましょう(^ω^)

コトバ解説:「不条理」と「理不尽」の違い【毎日新聞】

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2018年5月20日(日) 晴れ

最近になって、うちのクソ田舎な町に「コメダ珈琲店」が進出しました。
うーん、コメダwwww(←まだ引っ張ってるwwww)
 規格化・標準化されて量産できそうな建物ですが、この田舎町では十分お洒落wwww

       朝の時間帯に行くと、サービスでトースト付けてくれるぞー!
           今日は玉子より、あんこな気分だぜ♪(^o^)

この「コメダ珈琲店」は「田舎者のスタバ」な感じもしなくはないですが、休日の朝にゆったりとした時間と空間に浸りながら、もの思いに耽りたいような田舎者(←取りも直さず私のことだwwww)にとっては、ここはなかなか良い店です(´ω`)

店を出ました。田舎なので店の付近は、すでに当たり前のように田園風景が広がっています。

5月のこの時期にしてはやや肌寒い感じがしながらも、本日は晴天に恵まれました。

五月晴れの澄んで抜けるような青空に翠緑(すいりょく)の山々。通る車も少なく、月並みな美ではあるが牧歌的な風景。清涼とした微風が通り過ぎます。吹かれていると心地よいです。

ああ、ウンコに穢(けが)された心が洗われて、浄化されていくようだぜwwwwww(´ω`)
    北に向かって進みました。緑の小山が迫ります。何の変哲もない、月並みな美。

   西の方を眺めます。牧歌的な風景が見渡せます。月並みな、あまりに月並みな美。

南に振り向きます。市街地の彼方に小高い山々の青く連なるを眺望。月並みなビューティー

この青空の下で、今日も人々は各々の状況の中であがいて、戸惑って、些細なことで一喜一憂したりして――自分もその中の一人ではあるのだが、それにしても――月並みな美とはいえ、世界は美しい。あっぱれ、あっぱれ(´ω`)

この歌の”こころ”が、自分の心の琴線に触れたような気がした、そんな日曜の朝でした(^^♪
    

だから笑顔で明日も
がんばろう 幸運はまず笑うことから
始まってゆく気がして
ああ無理にほっぺたを上げて見る鏡
妙な自分の表情で みごと笑えたよ
おやすみなさん!

ひとり笑顔で明日の
ちょっとしたお楽しみ考えてたら
晴れるよ胸の空は
ああいつも幸せを望んでるから
なんて文学的な気分で眠ろうか
おやすみなさん! 笑って会えるよね おやすみなさん!

いざ夜勤専従者になってしまうと、休日の生活リズムが「サタデーナイト・フィーバー」から「ビューティフル・サンデーモーニング」のノリにシフトしたりするwwww(・ω・)

そういうわけで、コメダでモーニングしたところで、おやすみなさん!・・・( ˘ω˘)スヤァ

ところで、Aqours(アクア)3rdライブの福岡1日目の最速先行抽選に当選しました(祝)
今回は悲願叶って、現地でAqoursちゃんを拝めるぞー♪(^o^)

3rdのセトリは、アニメ2期挿入歌とBD封入特典のソロ曲を中心に構成されると思いますが、きんちゃんの歌声には今から期待しています(^^♪
      ♥われらが歌姫♫ レッツゴー!きんちゃん(⋈◍>◡<◍)。✧

    
5月25日にBD第6巻が発売されました。今回の特典CDのソロ曲はマリーさん(にゃーちゃん)と果南ちゃん(おすわちゃん)のターンでした。

  ♥唐突ながら、にゃーちゃん写真集発売、おめでとうございます(⋈◍>◡<◍)。✧

ローカル線と夏物白ワンピ少女”の情景は、それだけで”ひとつの詩(うた)”となる(´ω`)

で、話を元に戻すと、にゃーちゃんは期待を裏切らない安定の歌唱力♫ 
そして、これは個人的な趣味の話ですが、ここで特筆すべきは、果南ちゃん(おすわちゃん)の「さかなかなんだか?」

この曲は、変則的な軽快テンポのすいすいスイング♪ 軽妙洒脱のシャバダバなナンバーで、
寄せては返す波のようなピアノとサキソフォンとの掛け合いは、ともに歌姫をエスコートするジェントルマンのようでもあり、楽曲の世界を特徴づけている、小じゃれて快活で朗らかで、のびのびとした雰囲気が素敵に好印象で、聴いていて耳に大変に心地よく・・・生理的に快感を催させて前頭葉マッサージしてくれそうな音楽は、オジ☆チャンの大好きな逸品(*´ω`*)

福岡公演2日目のチケット最速先行抽選の結果は、果たしてどうなるのかなん(・ω・)?

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「余談」でほとんど一本の記事が出来てしまいましたが、これは、このバカブログではいつものことで(^^;・・・小さなことは気にせず、このへんで本題に入りましょう(^o^)

デミアン』の第5章「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う」の後半について大まかに見ると、私的な趣味の見解では、おおよそこんな感じですか(^ω^)

(1)第4章でデミアンがシンクレールに語ったこの言葉はフラグです。

きみの生命を作っている、きみの内部のものには、それがわかっている。われわれの内部に、すべてを知り、すべてを欲し、すべてをわれわれ自身よりよくなすものがいる、ということを知るのはきわめてよいことだ。

(2)第5章の〈前編〉でシンクレールを悩まし苦しめた、このへんの内面の煩悶も然り。

私は、自分の中からひとりでに出てこようとしたところのものを、生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難であったのか。

 あの冬じゅう私は、名状しがたい内心のあらしの中ですごした。私は孤独には長いあいだ慣れていた。孤独は私をおしつけはしなかった。私はデミアンハイタカや、自分の運命であり愛人であったところの大きな夢の人物の姿とともに生きた。その中を生きるのに不自由はなかった。なぜなら、すべては大きな広いものを見つめていたし、アプラクサスをさしていたから。

しかし、これらの夢のどれもが、また私の考えのどれもが私の思いどおりにならず、どれをも呼ぶことができず、どれにも任意に色を与えることができなかった。夢や考えがやって来て、私をとらえ、私を支配し、私はそれによって生きているのだった。

これらの(1)と(2)に記述していることが、とある「仲介者の手助け」によって統合に至る。
物語の大ざっぱな内容を予め言ってしまえば、そんな感じでしょう(^ω^)

これはあくまでも個人的な体験から学習したことではありますが、
「生命」「精神」の友好関係が崩れてしまうと、人は神経症に罹(かか)る。

この両者の紛争状態を調停して和解を促すことが自力で出来ればいいことなのですが、それが自分自身のこと、いわば究極のドメスティックな環境下での出来事なだけに、ここは「他力」の摩訶不思議の力による介入が要請されるところ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……( ˘ω˘)

先述の「(1)と(2)に記述していることが、とある「仲介者の手助け」によって統合に至る」というのは、つまりそういうことだと、私はそのように考えました(・ω・)

「生命」「精神」との関係性については、過去の拙記事でも何度か語ってきたわけですが、
この場を借りて、そのへんの記述を再掲してまとめておきましょう。サービスです(^o^)

下に貼ったリンク先は、2016年の盆休みに作成した記事です。
引用ブロックの文章は、イギリスの偉い先生が書いた本から書写したものです(^^;

「ラブライブ!サンシャイン!!」を社会改良派アニメ(!?)として語る回

……そういう個人が、ユングの先導で歩み始めた自己発達の道は、ユングによって「個性化の過程」と名づけられた。この過程は、「完全性」、または、「統合」と呼ばれる目標、すなわち、意識と無意識の両域における精神のさまざまな要素がまとめられて、一つの新しい統一体になった状態を目指すのである。
もし私たちが無意識は意識と並ぶ共同決定要因であると認識することができたならば、そして意識的要求と無意識的要求がともにできるかぎり考慮されるような生き方ができたならば、人格全体の重心はその位置を変えることになる。そうなると、重心は、意識の中心にすぎない自我のなかにはもはや位置せず意識と無意識間の仮想中点に位置する。この新しい中心を「自己」と呼んでもいいであろう

次に貼ったリンク先は、2016年の11月から12月にかけて作成した記事です。
ここの引用ブロックにある文章は、自作の駄文です(^o^)

女児向けアニメ「プリパラ」の思想について、個人的な体験を顧みて「ラブライブ!」のネタとともに語る回

……有限で儚い存在であるわれわれ「永遠の生命」に触れることとなり
――それは、閉塞的な動物的個我が「大きないのち」に触れることによって「小さないのち」が解放される瞬間でもあるが――そこでわれわれは安心立命の境地を得てそれを基盤にして再び新しい物語が始まる……云々。

2017年4月にリリースされたAqours(アクア)の3rdシングル「HAPPY PARTY TRAIN」(邦題「幸福党の訓練」←ほんのジョークです)は、発売から1年を経たところで1st・2ndに続いて、このPVも「公共財」になりました(^^♪
    
このPVの物語は「生命」「精神」との、あるいは「大きないのち」「小さないのち」との関係性が抒情詩的に描かれていますね(^^♪・・・さらに言えば「仏教的」でもある(・ω・)

「覚醒して内的飛躍」すなわち「実存哲学的飛躍」の果南ちゃんは、ほとんど阿弥陀如来!?
鰯の頭も信心から(←ほんのジョークです)・・・南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……( ˘ω˘)

ずら丸:大乗仏教の「大乗」とは「大きな乗り物」の意。諸行無常の理と永遠不滅のイデア
    ここには、浄土仏教が目指すところのエッセンスが、実に凝縮されているのですよ。
    よしこさん。

よしこ:お寺の子である、あんたらしい発想ね。これはウパニシャッド哲学で言うところの、
    アートマンブラフマンの合一を説いたものであると、堕天使の慧眼(けいがん)は、
    そのように解釈してるわ。一言申し添えておくと、よしこじゃなくヨハネ

         
「大きないのち」と「小さないのち」の関連で言えば、これらは、自らの「ニヒリズム研究」に大いに貢献してくれた書物で、ここから学んだことは、今の自己の内面におけるパラダイムの中心を成しているとも言える・・・個人的にはそれくらいの名著です(^ω^)

「世界」の概念、ならびに「社会」と「世界」を区別するという認識方法に出会ったことは、それまでの自己にとってのパラダイムシフトだったわけでもあり、その後の私の人生にとって大変に有意義なものとなりました。めでたし、めでたし(´ω`)

「利己的」と対をなすのは「利他的」で、これを「善悪」の対応関係にそのまま当てはめてしまうと、つまり「利己的=悪」「利他的=善」という構図に単純に固定してしまうと、世の中の善良な人たちのほとんどは精神的に病んでしまうでしょう。一方、他罰的な者やサディストたちにとっては、かえって彼らが求めていた社会となり得る。

そこでは、誰にでも有り得そうな落ち度ですら糾弾と厳罰の対象となる。「暴力こそ正義」が真理となった、悪い奴らだけが生き残る、適者生存のぎすぎすとした窮屈な社会です(;´Д`)

   「あるシステムの無矛盾性を、そのシステムの内部から証明することはできない」

これは「ゲーデル不完全性定理」と呼ばれるものですが、これを社会システムに応用してみると、例えば、「しつけ」と称して「虐待」が行われる。暴れて駄々をこねれば問題は解決されるものと思っているバカが一つ屋根の下で一緒に暮らしている。「いじめ」を苦に自殺したとされる生徒が所属していた学校で当局側が「いじめはなかった」と主張する……等々。

社会がよりドメスティックな環境になっていけばいくほど、第三者が介入しづらくなるので、よりタチの悪いものとなってしまいます。それが犯罪や事件に発展したりします(´・ω・`)

社会で起こるさまざまな問題には、社会の中からだけでは解決できないようなものも多く存在しているように思います。このような問題の扱い方としては、いったん「社会」と「世界」を区別して、「世界」の立場から「社会」を相対化する。このような問題解決のアプローチ方法を採用してみるのが有効なように思います(^ω^)

「人生の意味や価値」に関わる問題については、それを人間関係や社会関係の狭い枠組みの中だけで解決しようとすると、かえって絶望を促すおそれがあります。

こういうのは人間存在が普遍的に抱えている問題でもあるので、「人間」と「世界」との関係として捉えてやった方が、より希望をもたらすことが可能となるでしょう。

人間がマシーンになるための修業においては結果を出せることが至上命令ですが、人間になるための修行となると、これは「答えを出す」ことよりも「適切な問いを立てる」ことの方が、もっと大事だったりします。

問いの立て方が適切であれば、自ずと適切な答えが返ってくる・・・システムですね(^o^)
              ♥めが姉ぇ:「システムでーす」♥

これは、山田邦男『生きる意味への問い~V.E.フランクルをめぐって』から得た知見ですが、
「自己中心的な人生観」「世界中心的な人生観」――この両者は、個人における「天動説」が「地動説」へと転回する「人生観のコペルニクス革命」みたいなものと言えるでしょう。

「自己中心的な人生観」とは、簡単に言えば、「自分は人生から何を得ることが出来るか?」「すべては自分のため」・・・正直にして素直な見解です。これはある意味で「生きる力」の根本原理でもある。「エゴイズム」あるいは「エロス」(自己愛)というやつですね(^ω^)

しかし、エロスパワーだけだと、そのうち自力だけでは超えられない壁にぶつかってしまう。

「自分のために」とは言っても、その自分自身が「では、自分は何のために?」という問いに答えられない時がやってくる。これは「ニヒリズム」であり、それは生きた人間にとっては「絶望の原理」「死に至る病」となり得る。「エゴイズム」が「ニヒリズム」に到着するのは時間の問題で、それは確かなことであり、一方、人はいつかは必ず死ぬ存在であることも確実なことなので、こういう問題と縁のないまま死ねる人たちも中にはいるでしょう。ここでは、そういう”お目出度い”人たちは放っときます(^o^)

しかし、人生の途上で「エゴイズム」から「ニヒリズム」を体験して、「生きる意味の問い」に捕まってしまう人たちもいます。彼らに「安易な合理化」を促す程度のゴタクを並べてみたところで、まさにそのような態度こそが「ニヒリズム」(無価値化)の本質だったりするので、それでは「思考停止」しているようにしか見えないでしょう。

このような愚直なまでに自分自身に素直で誠実な人に対しては、「判断停止」の領域まで案内してあげる必要があります。

また、「判断停止」の領域で出会うのは、あくまでも「その人にとっての真理」なのであり、当事者以外の者は、そこまでのルートを紹介・案内することができるだけです。

ニヒリズム」は「虚無」や「無価値」の意ですが、これすら情熱や価値創造のための燃料に変質させてしまうところが「哲学すること」のスゴいところだと言えるでしょう(・ω・)ノ

ニヒリズム」によって「生きる意味の問い」に捕まってしまった、このような「不運にして幸運」な人たちは、「知的好奇心」と「知的誠実さ」が伴っていれば、真理の探求をしているうちに『般若心経』にある「色即是空、空即是色」のフレーズの意味を心で知るような時が、そのうちやって来るかもしれません。

ニヒリズムからの出発」イデアへの新たな旅立ち」――おめでとうございます(^ω^)

        想いを乗せて HAPPY PARTY TRAIN to go!
           あしたが呼んでる僕たちを

人生を哲学する精神は、自分の内にある生命に対して誠実であれば、「世界中心的な人生観」
へとやがて辿り着く。これは時間というよりは、むしろ「情熱」の問題でしょう。人生を安易な合理化では片付けられない、片付けたくない、片付けてたまるか!――これは意識よりも、むしろ無意識、さらに言えば「存在の根源」「生命そのもの」からの要請でしょう。

このことをごまかしてしまうと、性格が歪んだりします。人間は自然の一部です(・ω・)

人為的なものではなく「無為自然」な生き方が理想的だと思います。とはいえ、これは理想郷だったりもしますが。生きながらにして理想郷に辿り着くことは絶対にあり得ないでしょう。ただし、理想に近付いて行くことなら生きていてもできます。「絶対保証」ではありませんが「努力目標」です。

もっとも「理想に近付いていきたい」という意志は、「意志する」ということですでに人為的なのかもしれません。しかし、もしそれが生命レベルからの素直な要請なのであれば、それはむしろ「無為自然」だと言ってよいでしょう。このへんの違いを見極められることが、大事なように思います(´ω`)

「自分の人生は自分のため」…「では、その自分は何のために?」…「それは自分のため」…「だから、その自分は何のために?」…「だから自分のためだって言ってんだろうが! 何度言わせたら分かるんだ!? てめえ、ケンカ売ってんのか!? も、もう、ぶっちゃうぞ!」

実際にこういう感じなのかどうかは分からないですが、ここで一体何が言いたいかというと、「自己中心的な人生観」には「自己の絶対化」が起こりやすい。

こういう人は攻撃的なわりには意外と弱く、それもそのはず、自己理解が足りないまま自己を絶対的なものにしてしまおうとするので、そこには当然、無理が生じる。そのような人たちは当然の結果として「人生の失敗者」になりやすい。

・・・これは、体験者自らが語っていることなので、信ぴょう性は高いはずwwwww

そのような理由から「自己理解」は大切です。「自己」というものについて、よくよく考えてみることが大事でしょう(・ω・)ノ

「自己」というものは、要は関係性の産物だったりする。「固有の本来の自己」というのは、
実は自己自身の内には存在しない。これを仏教では「諸法無我」と呼ぶそうです。

ここで、自己の根底を成しているもの、自己の足元にあるもの、すなわち「存在の根源」とか「生命そのもの」とか、これまでこのブログで執拗に語ってきた「自己の内にありながら自化し得ないもの」について思いを馳せてみる必要があるでしょう。

”ありふれた虚しさの果て”にその人が知るのは、自分が自分に対して誠実であればあるほど、「自己」根底にして本質を成しているのが「世界」だということ。

「世界中心的な人生観」
の出発点は、そこにある。

・・・このことを銘記しておくべきでしょう。

「世界が存在していること自体が神秘だ!」
といった思いにまで至ることができれば、これはまたとない幸運であって、そういう人たちにとっては平素の味気ない生活においても、人生がすでにワンダーランドになってたりしてwwwww

・・・これは「芸術の目で人生を見る」修業でもあります(・ω・)ノ

「自分を中心にして世界は広がる」という人生の見方。これには一理ある。ただしこのことがすべてというわけではない。それと同時に「自分は世界を構成している一部」でもある。この双方がともに考慮されていることが大事でしょう。

「自分」の存在を公平に見ることができれば、「生きている自分」「生かされている自分」の両者が併存していることに気付く。この認識に不思議や奇跡、感謝とか有難さ、そういった気持ちが伴えば、その人にとっての人生の意味や価値生成する源泉にもなり得る

・・・そういうわけで、「自己理解」メタ認知の能力はとても大切だったりする。

こういうことは基本的に学校の授業で教わるような内容ではなく、あくまでも自己の内にある学習能力と環境適応能力がそうさせるのであって、ゆえに「メタ認知」の能力開発については学歴などに関係なく、ある程度は本人の問題意識と学習意欲次第で、人生経験と独学のみで、どうにでもなりそうなものだと思います(^ω^)

高校の時に勉強した内容は、今となってはキレイさっぱり忘れてしまいましたが、勉強以外のことは、今でもいろいろと覚えているように思います(^o^)

     キプチャク アッチラ いま記憶がよみがえる
        フン族 フビライ いま記憶がよみがえるよ
           ……モンゴロイド モンゴロイド モンゴロイドがくるぞー♪

そういえば、高校の卒業文集には、偉い人の名言がいくつかピックアップされていました。

「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味は分からない」(ゲーテ)

ゲーテ」という人の名前は、短文の後ろにくっつけると「とりあえずそれらしい文章になる便利な言葉」という話を過去に聞いたことがあります(^ω^)

使用例:「桃栗三年柿八年」(ゲーテ)

ここでいう「桃栗」とは――思うに、淫蕩や肉体的快楽の隠喩でしょう。
このような快楽、言い換えれば「ウハウハ系の人生の味わい」というものは、三年もすれば、結局はそれらは麻薬的な作用でしかなく、本質的には虚しく頽廃的なものにすぎない――そのように悟ってしまう。「桃栗三年」とは、つまりそういうことなのでしょう。
とはいえ、人間だもの。たまにはフーゾクにも行きたいです(←正直者w)

「…柿八年」――これは、人生の酸いも甘いも嚙み分けた「しみじみ系の人生の味わい」が分かるようになるまでには、あるいは渋柿から滋味な甘味と独特の食感が好感触な干し柿を作り出せるような、人生でそういった芸当を為せるようになるまでには、少なくとも、八年の歳月は要するであろう。

・・・ゲーテは、そのように思ったわけですね!(^o^)←ウソです

(この章でのけつろん)
以上、ここで述べてきた内容を踏まえることによって、『デミアン』の物語がより面白くなるのではないかと思います(^o^)

「精神」「生命」「自己中心的な人生観」「世界中心的な人生観」「小さないのち」「大きないのち」・・・これらの点に留意して作品を読み進めていけば、第5章の前半から後半へと移行していく箇所の場面が、実はこの作品における一つの転換点になっていることに気づかれるでしょう(^ω^)

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それでは、ここまできて、ようやく本文の講読に入りましょう(^o^)

今回も引用が多いですが、実を言うと、この記事づくりは「書写」のレッスンを兼ねていたりもするので・・・単なる言い訳です。すみませんねえ(^^;

そのとき、私は独自の逃げ場を――いわゆる「偶然」によって見いだした。しかし、そんな偶然は存在しない。あるものをぜひとも必要とする人が、この必要なものを見いだしたとすれば、それを彼に与えるものは偶然ではなくて、彼自身、彼自身の願望、必然が彼を導くのである。

ここのくだりについては、わかる。おれも(・ω・)ノ←倒置法w

   のぞみ:人生には「偶然」が「運命」に変わったり、「軌跡」が「奇跡」に
       なったりすることもあるんよ。not very often(滅多にない)やけどな。
       ところで、6月9日は何の日でしょう? 分からんかったら死刑やよ!?

ある日のこと、シンクレールは、町はずれにある小さな教会からオルガンの音が聞こえてくるのを耳にして、それを何度か繰り返しているうちに、彼はこのオルガンから発せられる音色のトリコリコになってしまったようです(^^♪

大きくはないが、いいオルガンだった。意力と粘りのある独特な極度に個性的な――祈りのように聞こえる表現を伴う、すばらしい演奏だった。その中でひいている人は、この音楽の中に一つの宝が秘められているのを知って、自分の生命を求めるようにこの宝を求め、そのためにオルガンをたたき努力しているのだ、というふうに、私には感じられた。私はテクニックという意味ではあまり音楽はわからないが、魂のこういう表現は子どものときから本能的に理解し、音楽的な要素を自己の内の自明な要素と感じていた。

まずは、ここで太字で強調した文章について、ちょっと吟味してみましょう(^ω^)

この箇所がもし「……この音楽の中に一つの宝が秘められているのを知って、そのためにオルガンをたたき努力しているのだ、……」だったとしたら、自分はたぶん「はあ、そうですか」みたいな感じでスルーしてしまっていたでしょう。

しかし「自分の生命を求めるようにこの宝を求め、」という、この一句を間に置いただけで、「そう! そう! そうなのよ!!」みたいな感じになって――こういう心の機微を拾い上げるような微妙な言い回しが、いみじくも文学的、あまりに文学的なwwww( ゚Д゚)

それで、この文章はちょっといじるだけで、そっくりそのまま自分がやっていることにも該当してしまうという、これには驚きの普遍性wwwwww(^o^)

「この作品の中に一つの宝が秘められているのを知って、自分の生命を求めるようにこの宝を求め、そのためにキーボードをたたき努力しているのだ、」

ラブライブ!」の作品の中に一つの宝が秘められているのを知って、自分の生命を求めるようにこの宝を求め・・・そうでしたか(´ω`)

また、このあたりの記述については、「表現者の心得」を説いたものと解釈することも出来るように思われます(・ω・)ノ

「周りからチヤホヤされてウハウハな気分を味わいたい」・・・作品づくりの動機には、正直なところ、このような要素もあることにはあるわけですが、しかしそれがすべてだとすると、
何らかの作品を作成できるテクニカルな才能はあったとしても、表現者としての資質は皆無。
そういうことになってしまうのではないかと思います。あくまでも持論ですが。。。

彼のかなでる音楽の中に、私は単に彼自身を聞くにとどまらなかった。彼のかなでるすべてのものがたがいに似通っており、隠れたつながりを持っているように思われた。彼のかなでるものはすべて信仰深く献身的で敬虔であったが、お寺まいりの人や牧師のように敬虔ではなく、中世の巡礼やこじきのように敬虔で、いっさいの宗派を超越している世界感情に身をささげきった敬虔さであった。

バッハ以前の名匠や昔のイタリア人のものもまめにかなでられた。すべてが同じものを語っていた。このオルガン奏者が心にいだいていたもの、すなわち、あこがれ、世界の最も深い認識、世界への激しい告別、自己の暗い魂への熱烈な傾聴、献身の陶酔、驚異すべきものに対する深い好奇心などを、すべてが語っていた。

シンクレールは、このオルガンから発せられる音色から「同じしるしを持つ者」を発見するに至ったようです。よかったですね!(^ω^)

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シンクレールは、このオルガン奏者の演奏にすっかり魅了されたようで、夕方ごろの時間帯に教会の前までやって来ては、外にもれてくるオルガンの音色に聴き入るのが、彼の新たな日課になりました。

そうして、ある日のこと。シンクレールは、オルガン奏者の知己を得ることになります。

あるときオルガン奏者が教会を出て行くのをこっそりつけて行くと、かれはずっと町はずれの小さい酒場にはいった。私はさからいかねて、彼のあとからはいった。

何やら”出待ちのストーカー行為”みたいなことをやっていますが、このオルガン奏者の風貌については、こういう感じなのだそうです(・ω・)

まだ若い人だったが、私よりは年上で、ずんぐりとがっしりした格好をしていた。

                (中略)

醜くていくらか粗野で、追究的で凝り固まっており、強情で意志的ではあったが、口のまわりは柔らかく子どもらしかった。男性的な強い点はすべて目と額に集まっており、顔の下の部分は柔らかく未完成のままで、しまっておらず、ある点はたるんでいた。不決断な表情をたたえたあごは少年じみていて、額とまなざしに対して矛盾のようだった。誇りと敵愾心にみちた濃いトビ色の目は、私には好ましかった。

これはまた・・・「ぼくたち」の親愛なる友だちに関するステレオタイプみたいな!?(^o^)

ヘルマン・ヘッセという人は、ノーベル文学賞まで受賞した世界的にも文学史的にも、とても偉い人なわけですが、こういう偉い人が、実はわれわれにとって精神的にかなり身近な人でもあるらしい――これは、世間がオタクに抱いている偏見を補正してもらうのに有利な証拠物件となるかもしれません。よかったな、お前ら(^ω^)←読者にふるなwww

その酒場で、シンクレールはオルガン奏者と会話する機会を得て、虚構だから可能なのだろうと言ってしまえば身も蓋もないような「自然な流れ」を以ってして、その場で意気投合して、そこから二人の「交わり」(Kommunikation)の日々が始まることとなりました。

「いや、ぼくは音楽を聞くのが好きです。もっともあなたのひくようなぜんぜん制限されない音楽だけです。人間が天国と地獄をゆすぶっているのが感ぜられるような音楽だけです。音楽は、いたって道徳的でないから、ぼくにとって非常に好ましいのだと思うのです。ほかのものはすべて道徳的です。ぼくはそうでないものを求めているのです。ぼくは道徳的なもののためにいつも苦しむばかりでした。ぼくは自分の気持ちをよく言い表すことができません。――神と悪魔とを兼ねるような神がなければならないことをご存じですか。そういう神があったということです。ぼくはそれについて聞いています」
楽家は、だれかに聞かれでもしはしないかと、疑わしげにあたりを見まわした。それから私のそばに寄って来て、ささやいた。「ぼくはそれを考えていたんですよ。きみはどなたですか」

この音楽家は「ピスト―リウス」という名の青年で、彼の親はこの町でお偉いさん級の牧師をやっていて、そして彼はその勘当息子なのだそうです。

「アプラクサス」について理解のあるオルガン奏者のピスト―リウスは、キリスト教の牧師の息子という立場からすると、”異端マニア”とも言うべき趣味を持ち合わせているようです。

「……人々はどういう神々をおりにふれて考え出してきたか、ということが、ぼくには依然重要であり興味があるんだ。それはそうと、ぼくはいまは音楽家で、まもなくささやかなオルガン奏者の地位が得られそうだ。そうなればまた教会にもどるわけだ」

やがてシンクレールは、ピスト―リウスの部屋に招かれるくらいまで親睦を深めるようになりました。

「来たまえ」と、やがて彼は叫んだ。「少し哲学の練習をしよう。つまり、口をつぐんで、腹ばいになって考えるんだ」

                (中略)

拝火教は最も愚劣な創案ではなかった」と、彼は一度なにげなくつぶやいた。それ以外ふたりともなんにも言わなかった。私は目をすえて火を見つめ、夢と静寂の中にひたり、煙と灰の中にさまざまの姿かたちを見た。一度私はぎくっとした。友だちが樹脂の小さい塊を火の中に投げたのだった。小さい細い炎がぱっと燃え上がった。私はその中に、黄色いハイタカの頭をした鳥を見た。消えゆく暖炉の火の中で金色に燃える糸が網になり、文字や形が現われ、さまざまの顔や動物や植物や虫やヘビの記憶を呼びおこした。私がわれにかえって、相手の方を見ると、彼はあごを両のこぶしにのせて、没我的に熱狂的に灰の中を見つめていた。

このあたりまでくると、ピスト―リウスの推しメンが一体誰なのか、おおよその見当がついて来たかと思います(^ω^)・・・本文とは何の関係もありませんが(^^;

よしこ:「だめよヨハネ、こんなものに心を奪われたら、浄化される…浄化されてしまう!」

さて、ここからシンクレールの述懐です。

私は気づかなかったが、オルガン奏者のピスト―リウスは、私が彼といっしょに彼の陰気な孤独者のへやの暖炉の前に横たわったとき、私に最初の授業を与えたのだった。

火を見ることは私にいい効果を与えた。それは、私がいつもいだいていながら、実際には養い育てたことのない性向を確かめ、強めてくれた。しだいにいくらかずつ私にはそれがはっきりしてきた。

小さい子どもの時、私はすでにいつも自然の怪異な形をながめる癖があった。観察するのではなく、その独特な魅力に、その入りくんだ深いことばにひたりきるのだった。木質化した長い樹根、岩石の中の色のある条紋、水に浮いている油の斑点、ガラスの中のひび――そうしたいっさいのものがときとして私にとって大きな魅力を持った。とりわけ、水と火、煙、雲、ほこり、特に目を閉じたときに見えるぐるぐるまわる色の斑点が魅力を持っていた。ピスト―リウスをはじめてたずねたあとの数日間、そのことがふたたび頭に浮かびだした。なぜなら、それ以来私の感じていた一種の活気と喜びと自我の感情の高揚とは、もっぱら例の燃える炎を長いあいだ凝視したことによって得られたものであることに、私は気づいていたからである。あの行為は不思議に快く心を富ますものであった。

拝火教」とは「ゾロアスター教」のことでしょう。そして「ゾロアスター」のドイツ語読みは「ツァラトゥストラ」・・・ニーチェですねえ(^ω^)

さらに余談ですが、ここで「燃えろよ燃えろ」という唱歌を思い出しました(^^♪

この歌はキャンプファイヤーを囲う集いでは鉄板ソングですが、火災の現場で歌ったりすると大変に不謹慎です。気を付けましょう(・ω・)ノ

「……特に目を閉じたときに見えるぐるぐるまわる色の斑点が魅力を持っていた。」

この記述について、大島弓子のマンガに『ジギタリス』という作品があって、そのことを思い出しました。『綿の国星』という作品の単行本の巻末付録に2話完結で掲載されていました。
これも今から30年以上昔の話です・・・オジ☆チャンは語る(笑)
             ※画像は拾い物です。念のため。

このマンガ作品は、現在では、このアンソロジー本に収録されているそうです(^ω^)
             「ロングロングケーキ」(白泉社文庫)

話がだんだんと余談の方にそれてきましたが、さて、ここからが大事なところです(・ω・)ノ

今まで自分の本来の生活の目標を目ざして進んできた途上で見いだした少数の経験に、この新しい経験が加わった。すなわち、そういう形象の観察、自然の非合理的な入りくんだ不思議な形への没頭は、私たちのうちに、そういう形象を生ぜしめた意志と私たちの心との一致の感情を起こさせた。――私たちはまもなく、そういう形象を自分のむら気、自分の作りものと考える誘惑を感じる。――また、自分と自然とのあいだの限界が震え溶けるのを見る。そして、私たちの網膜に映るさまざまの形が、外部の印象から発しているのか、内部の印象から発しているのか、わからないような気分を知るようになる。私たちは、この練習の場合ほど単純容易に、どんなに自分たちが創造者であるか、どんなに自分たちの魂がたえず世界の不断の創造に干与しているか、という発見をすることはない。むしろ、私たちの内で働いているのと自然の内で働いているのとは、同一不可分な神性である。外界の世界が滅ぶようなことがあったら、私たちのうちのひとりが世界を再建することができるだろう。なぜなら、山や川、木の葉、根や花など、自然界のいっさいの形成物は、私たちの内部に原型を持っており、永遠を本質とするところの魂から発しているからである。私たちはその魂の本質を知らないが、それはおおむね愛の力や創造者の力として感じられるのである。

ここに来て、シンクレールは一つの新たな境地に達したようです。

ピスト―リウスが与えた授業によって、シンクレールは「小さないのち」(=自己)が「大きないのち」(=世界)と合一する――そのような神秘的な体験をするに至りました。

「授業」とは「業(わざ)を授ける」の意。ここで行われているのは、本物の授業(´ω`)

まさか「業(ごう)を授ける」という意味ではないでしょう。これはイヤですね(^^;

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ピスト―リウスの授業はさらに続きます。

ここでは「集合的無意識」みたいなことを語っていますが、実際に『デミアン』という作品はユングの影響が大きいように思います。

フロイトユング、どっち派?」と質問されて後者と答えてしまうような人には、この作品は大変に面白く感じられるでしょう(^ω^)

「ぼくたちは自分の人格の限界をいつもあまり狭く限りすぎる。個人的に区別され異なっていると認めるものだけを、ぼくたちは常に自分の個人的存在の勘定に入れる。ところが、ぼくたちは、ぼくたちのだれもが、世界に存続するすべてのものから成り立っている。ぼくたちのからだが、魚まで、否、もっとさかのぼった所まで発展の系図を内に蔵しているように、ぼくたちは魂の中に、かつて人間の魂の中に生きたことのあるいっさいのものを持っているのだ。かつて存在したことのあるいっさいの神々と悪魔は、ギリシャ人や中国人のものであろうと、あるいはズールカッファー族のものであろうと、すべてぼくたちの中にある。可能性として、願望として、方便として存在している。人類が死滅して、なんの教育も受けなかった中ぐらいの天分の子どもがたったひとり残ったとすれば、この子どもは諸物の過程を見つけ出し、神々、悪魔、天国、おきて、禁制、旧約と新約聖書など、なんでもみんなふたたび造ることができるだろう」

言うなれば、ここは「人生の学校」「人生の道場」「実存!!男塾」
ピスト―リウスに弟子入りしたシンクレールは師匠に向かって、このような質問します。

「それじゃ、個人の価値はどこにあるんですか。ぼくたちの中にすべてがもうできあがっているとしたら、なぜぼくたちは努力するんですか」

「君、それはいい質問だね!」とか返したかどうかは知りませんが、この質問に対してピスト―リウスは、このように回答します。

きみが世界を単に自分の中に持っているかどうかということと、きみがそれを実際知っているかどうかということとは、たいへんな違いだ。気ちがいだって、プラトンをしのばすような思想を生み出すことはできる。ヘルンフート派の学校の小さい信心深い生徒でも、グノスティック派の人々やゾロアスターに現われる深い神話学的な関連を創造的に考える。だが、彼はそれについて何も知らない。それを知らないかぎり、彼は木か石か、最も良い場合でも動物にすぎない。この認識の最初の火花がほのめいて来るとき、彼は人間になる。往来を歩いている両足のものが直立して歩き、子どもが九か月間みごもるからと言って、ただそれだけで、きみは彼らをすべて人間だとは思わないだろう。それどころか、かれらの非常に多くが、魚か羊、虫けらかヒルであるのを、またアリでありミツバチであるのを、きみは知っている。彼らのすべての中に、人間になる可能性が存在しているが、それを察知し、そのうえその一部を意識的にすることを学んだときはじめて、この可能性は彼のものになるのだ

人間は「世界」を認識しないかぎり、言い換えれば「存在の根源」や「大きないのち」を知らないかぎり、偏狭な動物的個我にとどまったままで、「はやくにんげんになりたーい!」以前の状態にあるということですね(^o^)

このブログでも「人間」と「畜群」を分けて使ったりすることがあります。
      
ヤスパースの『哲学入門』に記されてあった、この言葉が思い出されます(´ω`)

      「人間であることは、人間になるということであります。」

シンクレールは、ここでまた新たな覚醒レベルのステージに到達しました(^ω^)

 私たちの対話はだいたいこういうふうだった。まったく新しいもの、ぜんぜん意外なものをもたらすことはまれだった。しかし、その対話はすべてどんなに平凡な対話でも、私の心中の同一点をかすかながらたえずハンマーでたたいた。すべては私の形成を手伝ってくれた。すべては、私が皮を脱ぎ、卵の殻を破るのを手伝ってくれた。そのたびごとに私は頭をいくらかより高く自由に上げていった。ついに私の黄色い鳥は、その美しい猛鳥の頭を、破壊された世界の殻の中から突き出した。

ここまで来たところで、この曲を再度おさらいしておきましょう(^^♪
    
前回と今回の記事は、もともとはAZALEAに対するリスペクトやオマージュの気持ちが動機となったわけで・・・本質的にはファンレターやラブレターですよ、これは(⋈◍>◡<◍)。✧

それにしても、話が膨らみすぎ(^^;
本来は3本分くらいに相当する記事を・・・今回も1本につなげてしまいましたwwwwww

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第5章の引用が終了するとともに、この記事もおしまいです。もう少しで終わります(^o^)

 私たちはまたたびたびたがいの夢を語りあった。ピスト―リウスは夢に解釈を与えることを心得ていた。

ここで話題となっている「夢」というのは、「将来の夢」とかそういった類のものではなく、ただ単に「寝て見る夢」についてですね(^ω^)

自分なんかは「寝て見る夢」に関しては「これは自分の内面にある欲望や恐怖が意識化されたもの」程度に簡単に捉えているわけですが、ピスト―リウスは、それをもっと深く掘り下げて分析することができるようです(・ω・)ノ

シンクレールは、ある日見た夢についてピスト―リウスに語りました。

ある夢の中で私は飛ぶことができたが、いわば自分で制御することのできない大きな飛躍によって空中に投げ出されてしまった。この飛行の気持ちは心を引き立てたが、やがて恐ろしい高さに無抵抗に引き上げられたのを見ると、不安になった。そのとき、私は呼吸の停止と放出とによって自分の昇降を調節しうることを発見して、ほっとしたのだった。

自分も空を飛ぶ夢はたまに見ますが、民家の2階よりも高く飛べたことがありません(^^;

それはさておき、シンクレールの見た夢に対して、ピスト―リウスは次のような解釈を与えたのでした。

「きみを飛ばせる飛躍は、誰でもが持っているわれわれ人類の大きな財産なのだ。それはあらゆる力の根とつながっている気持なのだが、いざとなると皆不安になるのだ。ひどく危険だからね! そこでたいていのものはいっそ飛ぶことを断念して、法規に従い歩道を歩くことにするのさ。だがきみは別だ。きみは有為な青年にふさわしく飛び続けている。するとみたまえ、きみは不思議なことを発見する。つまりきみはしだいにそれを制御するようになり、きみを引きさらって行く大きな普遍の力に、微妙な小さな独特な力、一つの器官、一つのかじが働くということを発見するにいたる。それはすてきだ。それなくしては、自分の意志は無視されて空中に飛ぶのだ。例えば気ちがいのするように。気ちがいたちには、歩道を歩く人々よりいっそう深い予感が与えられているのだが、彼らはかぎもかじも持たないため、底なしのふちに墜落してしまう。だが、シンクレール、きみは抜けめなくやっている。どういうふうにやっているのか、言ってくれたまえ。まだぜんぜんわからないというのか。きみは新しい器官、つまり、呼吸調節器でやっているのだ。そこで、きみの魂はつきつめたところ、きわめて『個人的』でないことがわかる。つまりきみの魂がこの調節器を見つけ出すのではない。調節器は新しいものではない! それはいわば借り入れたもので、数千年この方存在している。それは魚の平衡器官、つまり浮き袋なんだ。実際今日でもまだ少数の奇妙な保守的な魚の種類があって、その浮き袋は同時に一種の肺であり、場合によってはりっぱに呼吸の役をすることもできる。つまりきみが夢の中で飛行の浮き袋に使った肺とまったく同じものなのだ!」

ここでピスト―リウスが言わんとしていることは、人生が「遊戯三昧」の境地へと至るための奥義は「きわめて『個人的』でない…」――つまり、そういうことですね!(^o^)

一体、どこでそんな話になったのか、”よしこ推し”のピスト―リウスにとっては、このような場においては、やはり「アートマンブラフマンとの合一」を説かずにはいられないwwww

しかし彼は、もしかすると「対機説法」を心得ていたのか、”絵里ちゃん&果南ちゃん推し”のシンクレールに対しては、おさかなネタで解説するのでした???

      SA-KA-NA SA-KA-NA SA-KA-NA♪ 自由なミライを~♪ 
          SA-KA-NA SA-KA-NA SA-KA-NA♪ 泳いで行こうよ~♪


「心地よい強引さ」でもって「外の世界」へと連れ出してくれた他者との出会いというのは、生涯にわたって忘れがたい思い出になりそうなものだと・・・わかる。おれも(´ω`)


今回の記事は、このへんで終わりにします。『デミアン』は全体で第8章まであるのですが、第6章以降の感想文ついては、今のところ考えていません。もしかすると、また3年後くらいに気まぐれで投稿するかも知れません(^^;

目下、人生における最大の関心といえば・・・Aqoursの3rdライブ楽しみにしています(^^♪

それでは、皆さんごきげんよう。また会う日まで(^o^)/