【読書感想文】ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(第4章)について語る回

コマサン、ミンバンハ(^o^)
えー、わたしはケンナからオジラミをうつされて、ナンキンにイッたのです。
ホテル・ニュー越谷

・・・スネークマンショー知ってる人(・ω・)ノ

それはさておき、3月4日はわれらが親愛なる国木田花丸ちゃんのお誕生日なのでした(^^♪


           ♥おめでとうございます(⋈◍>◡<◍)。✧

ファンミは貧乏の極みな時期と重なったので、LVも観に行ける状態にありませんでしたが、
GWの函館ユニットライブはLVやってくれたら観に行けるかも♪ 3rdライブは7月に福岡公演もやってくれるということで、これはできたら現地で観たいです(´ω`)
    マルちゃん推しの僕は、これを浦の星購買部で前払いで購入しました(^o^)

そしてさらに、3月15日はこれもわれらが親愛なる園田海未ちゃんのお誕生日なのでした♫


           ♥おめでとうございます(⋈◍>◡<◍)。✧

・・・ところで、どうしていちいち「われらが親愛なる…」を冠して付けるたがるのか?
・・・われながら意味不明の無意識バイアスwwww
               ♥世界が平和でありますように♥

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それでは、閑話休題。本題に入りましょう(^o^)

予め断っておきますと、今回のクソ記事は引用が多く長いです(^^;
また、味わいのある文章などが書けるような技能もてんで持ち合わせてはなく、ただひたすら冗長なだけなので、読者諸賢におかれましては、太字や色付きの文字列だけ目を通されると、この記事の趣旨についてはおおむね伝わるのではないかと思います(^ω^)

さて、去年の夏あたりから開始した個人的に書き溜めている作文ですが、休日の時間を使ってしこしこつらつらと書き連ねていくうちに、先月の終わり頃にようやく序章が出来ました(完成したとは言ってない)。36,000字ほどになりました。しかし、それを読み返してみて・・・
      「何ですの? これは。全く心に響いてこない文章ですわね……」

    「このようなものを認める訳にはいきません。全ボツですわ!!」

                   「ふええ……」

前回の拙記事からの自然な流れとして、いわば「落選ショック」のようなものによって、自分の作品に対する態度がだいぶ厳しくなってしまったようで(但しブログ記事は除く)、これでは某小説投稿サイトで公開を予定している時期も大幅に遅れそう。。。(確信)

・・・そう言いながら、目下こんな記事を作成しているというwwwww

もっとも、自分の作品については神様が期待しているだけだろうなので、上述のことは自分の心の中だけで虚しく響いているに過ぎないわけですが。。。(´・ω・`)

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その昔、役所で文化行政を担当する部署に配属されていた頃、「市長のあいさつ文」なるものを自分が起案して稟議(りんぎ)で持ち回りして、大変に非効率な意思決定方式の仕事をやっていたことがありました。

まず自分のハンコ①からスタートして、次に自分の所属課の係長②→課長③→参事④→庶務課の係員⑤→係長⑥→課長⑦→部長⑧→局長⑨→秘書課の係員⑩→係長⑪→課長⑫→副市長⑬ 

自分が作成した叩き台となる原稿を持って、計13個のハンコを集めて回るだけの簡単なお仕事
・・・今になって、あの悪夢の記憶がよみがえる(;´Д`)

このリアルRPGの実質的なラスボスは秘書課の課長補佐(←この職位は係長級)で、ここでボツになれば、ふりだしに戻って手直しした原稿を再び持ち回るの試練。しかし、ここさえクリアしてしまえば、最終的に副市長あるいは市長の決裁が下りるまでは意外とスムーズな流れで、そうやって行政機関としての意思決定がなされて、決定済みの文書はやがて不特定多数の市民の目に触れたり、あるいはマスメディアの記者たちの前などで晒されることとなるのでした。

配属されてまだ経験の浅い時期に自分が起案した「あいさつ文」は、持ち回りで稟議にかけられている間にいろいろな職員の手が加わって、決裁が下りる頃には文面が全く原形をとどめていなかった――そんなこともありました(泣)

当時は、その課長補佐から「お前には文章の才能がないッ!!」とかさんざんこき下ろされたりもしましたが、「市長のあいさつ文」で異世界ファンタジーを書くわけにもいかないだろう。悪意のある市民から揚げ足取りされるリスクも伴っているので、あまり好きなように書くこともできない。制約のきつい文章だ。公文書には”公文書の文体”というものがあって、そもそもエクリチュール(文体)が違うのだ。(←訳の分からない言い訳)

それでも、「市長のあいさつ文」に苦しめられること半年もすると、その”文体”というのにもだいぶ慣れてきて、要領もそれなりに呑み込めてきたようで、稟議も助詞の書き換えや語句の補充、体裁を整える程度の手直しだけで、何とか決裁まで辿り着けるまでになったのでした。

私の部署は夜の10時に帰宅して「今日は早く帰れたぞー!」みたいな全く素晴らしい職場で、休日出勤も多く、ついには過労で倒れて寝込んだりしたので、わずか一年で飛ばされました。めでたし、めでたし(^ω^)

あの一年間は、いわゆる”地方行政のエリート”とされている人たちの中に混ざって日々の業務に忙殺されていましたが、あの世界には「知恵が回ってガッツがあって人間もできた人たち」という稀有な人材が少なからず存在し、「世の中にはこんな人たちも実際にいるんだ」と感心するとともに、自分にはエリートの素質がないことを体験する良い機会となりました(笑)

・・・現場からは以上です。

失敗と挫折の経験のみに富む、愛すべき私の人生にも地方行政のエリートを嘱望されていた頃などもあったと言えばあった。しかし「没落せよ!」と、ツァラトゥストラはそう言った。

ニヒリズム研究」に公務員という安定した身分は不相応だ。妻子を持つのも相応しくない。

24歳の若さで大学の助教授となったニーチェは、30歳の時に『悲劇の誕生』を発表して、彼の勤め先であった古典文献学の学会から破門になって、それ以後、彼は「さまよえる哲学者」となったのだった。。。

十字架にかけられし者。ディオニュソスディオニュソス・・・うむ。然り。(・ω・)

ああ、神様だけが知っている、神様だけに愛される人生(;´Д`)(←英語的な言い回しw)
(参考:Heaven knows=Nobody knows)
          そして、女神さま♡のぞみちゃんは言いました。

「人生というのは、そうやね……君がただ一方的に人生に期待している――実はそれだけではダメなんよ。時には、人生の方が君に期待している――そういうこともあるんよ。人生からの期待に応えていけるかどうか、それが試される時もある。つまり、”試練”ってことやね。」


のぞみちゃんは、帰依する者を甘やかさない女神様でしたwwwwww(;´Д`)

それにしても、……文才がないのは認める。

が、しかしだ、……おれは作家になりたいわけではなく、それよりも作品が、ひとつの世界が創造されることを欲してしているのだ。つまり、そういうことなのだ! それが、何の因果かニヒリズムを探究してしまった者に託された使命であり、運命なのだ!(自問自答おわり)

            ♥のぞみ:「そうやよ。がんばりや!」♥

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そんなこんなで、今回、自らの文才のなさを改めて思い知ることとなり、そこで読書することの必要性をひしひしと感じて、部屋の書棚から何となく手に取った一冊がヘルマン・ヘッセの『デミアン』・・・これも無意識バイアス???

実のところ、この本はすでに3周くらいしていて、自分の中ではほとんど「座右の書」としての地位を確立していたのでした。

作品中の所々に、まるで自分に宛てたかのような記述があったりして、初めての読後の感想は「人生の偉大な教師がまた一人増えたぞーっ!」と素直に両手を挙げて喜んだものです(´ω`)

読む人によっては、「自己意識の変革」を手助けしてくれる手引書にもなり得るでしょう。

個人的に大変に面白い作品だったので、読書感想文の記事も立て続けに作りました。
2015年11月のことです。自分の中では「秋のデミアン祭り」になっていたようです(笑)

【読書感想文】ヘルマン・ヘッセの『デミアン』について語る回

【読書感想文】ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(第2章の続き)について語る回

【読書感想文】ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(第3章)について語る回

「第4章の感想は気が向いたら書きます」などと言い残して、あれから2年半の月日が流れ……

高1の秋に「続きを書きます」と言っておいて、それを実行したのは高校卒業後になってから
・・・みたいなことを考えてしまいました(^^;

しかし、2年半前のことでも、今は2か月半前のことくらいにしか感じなくなったような。。。

しかも時間が過ぎていくのが、苦役の労働時間を除けば、受験の本番や好きな女の子と楽しく過ごしているくらいに早く感じるようになってきて、ヒマを持て余している人がいたらオラに時間を分けてくれ!・・・正直、そんな心境だったりします(;´Д`)

何というか、高校生の頃とおっさんになった今とでは、時間の流れ方に対する意識がずいぶんと変わってきたように思います。あの頃と比べると、今は環境の変化に乏しく、親密な人付き合いというのもだいぶ少なくなったにもかかわらず、やっておきたいことはそれなりにあって
・・・そのへんと何か関係があるのでしょうか?

もし頭の中が「おまんこしたい」くらいしかなかったら、たちまち人生は「百万年の退屈」となって、これは発情期のリミッターを外されて万年発情期になってしまった人類に共通の普遍的な悩みでもありますが、これでは生きることが大変に苦しいものになってしまうでしょう。
カタストロフの幻惑――それは、リビドー&アノミー

20年前にはまだ女子高生だった丸顔のあの可愛らしい女の子も、今では肥満した婆々(ばば)となり――嗚呼、Young & Lovely(←もはや意味不明)

このモヤモヤやムラムラを救済したり無害化することが、文化の重要な役割なのだ!(^ω^)

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意味不明の余談になってきたところで、そろそろテキストの講読に入りましょう(^o^)

第4章「ベアトリーチェ」です。

この物語の主人公のシンクレールは高等中学校に進学することとなり、ひとり実家を離れて「聖…市」という都市にある学校に入学して寄宿舎生活を送ることになりました。
彼の親愛なる盟友であるデミアンとはしばらく会っていないようです。

100年前のドイツの教育制度のことは知りませんが、それは本文の内容にとってはトリビアルな知識に過ぎないので、ここではシンクレールは今の日本の高校生くらいの年齢になったと、そのように仮定しておきましょう。

この章の最初のくだりについて。あらすじはだいたいこんな感じすか?(^ω^)

シンクレールは入学早々にしてクラスから浮いた存在となり、デミアンのような孤高で高貴な鍛え抜かれて洗練された変人になることもできず、中途半端で軟弱な変人となって面白くない学園生活と寮生活を送っているうちに1年が過ぎてしまったようです。

そして、ある秋の日。

シンクレールが一人で公園を散歩していた時に、アルフォンス・ベックという学校の先輩から偶然に声をかけられたことをきっかけに、彼は酒の味を覚えるようになって、校内の愚連隊の生徒たちに仲間入りするようになりました。

「ハイカラ」に対する「蛮カラ」というやつですかね、これは(^ω^)

ある意味において仲間たちから”愉快なやつ”として通るようになったシンクレールは、居酒屋で飲み明かしては健全な生活態度をすっかり失ってしまう体たらくぶりで、ついには退学寸前の状況にまで陥ることになりました。

”陽気で悲惨”な学園生活を退廃的にエンジョイされているご様子です。あるある(^o^)

その年の冬休みに帰省して家族と一緒に過ごしたクリスマスは、とても気まずい憂うつなものだったようです。

(まとめ)この頃のシンクレールは「コワレヤスキ」な少年だったのでしたwwwww
   

この灰色の孤独からデカダンの暗黒へと堕落していった青春の一時期について、彼が述懐するシーンがあります。

 神がわれわれを孤独にし、自分自身に立ち帰らせる道はいろいろある。その当時、神は私に対し上述の道を取った。それは悪夢のようだった。

「神がわれわれを孤独にし、自分自身に立ち帰らせる道はいろいろある。……」
シンクレールのこの言葉は、自分の現実の過去の人生にそのまま当てはまってしまったので、
「そうか、そういうことだったのか!」と自分のことのように納得してしまうのでした(笑)

未来の僕らは知ってるよ」がさらに親しみをもって感じられるようでもあります(^^♪
    

ある春の日。引用の「上述の道」にもそろそろ終わりを告げるような出来事がシンクレールの身に起こったようです。

「月に叢雲(むらくも)、花に風」とは「よいことは長くは続かない」の喩えでありますが、
しかし、物事を公平に見るように努めるならば、悪いこともそんなに長くは続かない。
・・・これは「諸行無常」を積極的な方向に解釈した場合に言えることでもあります。

 秋にアルフォンス・ベックと会った公園で、春のはじめ、イバラの生けがきが緑しはじめるころ、ある少女が私の目をひいたことがあった。私はひとりで不快な考えと心配に満たされて散歩していた。私の健康は悪くなり、おまけにたえず金のことに悩まされ、友達に借金したり、家からいくらか取り寄せるために必要な出費をくふうしたりしなければならなかった。そして方々の店に葉巻やなんかの勘定が積っていた。こういう心配が非常に深くなったことなんか、なんでもなかった――近いうちにこの地の滞在が終りを告げて、水に飛びこむか、感化院に入れられるかするとしたら、そんなささいなことはまったく問題ではなかった。しかし、そうしたありがたくないこととたえずにらみあって暮し、そのために悩まされた。

このような”悩める少年”であったシンクレールにも、ようやく転機が訪れたようです(^ω^)

 あの春の日に公園で会った若い女の人に私は非常にひきつけられた。彼女は背が高くすらりとしていて、優雅な着物を着、聡明な少年のような顔をしていた。彼女は即座に私の気に入った。彼女は私の好きな型に属していて、私の空想を働かせ始めた。私よりおそらくたいして年上ではないらしかったが、ずっとできあがっていて、優雅で個性がはっきりしており、もうほとんどまったく淑女といってもよかった。そしてかすかに気位と男の子めいたところを顔にたたえているのが、私には極度に好ましかった。

僕は『デミアン』をTVアニメ「ラブライブ!」を見た後になってから読んだので、上の引用をビジュアル化すると、脳内は自ずとエリーチカ(⋈◍>◡<◍)。✧
    
           ♥シンクレールは「エリチ推し」だった!?♥

 私は自分の恋する少女にうまく近づくことに成功したことがなかった。こんどもうまくいかなかった。が、印象はいままでのどれよりも深かった。この恋が私の生活に及ぼした影響は大きかった。

ヘルマン・ヘッセという作家はノーベル文学賞まで受賞したとても偉い人ですが、上の引用は「こいつ、きっといい奴なんだろうな」と思わせるような一文ですね!(^o^)
               ヘルマン・ヘッセ(1946年)

 突然私の眼前には一つのすがた、高い崇拝するすがたが出現した。――どんな欲求も衝動も、畏敬と礼拝を願う心より深く激しくはなかった! 私は彼女にベアトリーチェという名まえをつけた。ダンテを読んだことはなかったが、自分のしまっていたイギリスの絵の複製によってベアトリーチェのことを知っていた。それにはイギリスのラファエル前派の、手足の非常に長くすらりとした、顔が細長く、手や表情が精神化された少女の像が描かれていた。私の美しい少女は、私の好きなしなやかな少年めいた形を示し、顔にも精神化あるいは霊化されたところがいくらかあったけれど、あの肖像にすっかり似てはいなかった。

 私はベアトリーチェと一言も話したことはなかった。しかし彼女は当時私にきわめて深い影響を及ぼした。彼女はその姿を私の前にすえ、一つの霊場を私のために開き、私を一つの寺院の中の祈禱者にした。日一日と私は飲酒と夜のうろつきとから遠ざかった。私はまた孤独に耐えられるようになり、好んで読書をし、好んで散歩をするようになった。

上の一連の記述から察するところ、シンクレールはベアトリーチェ」と勝手に名付けた少女の姿を通じてイデアを見出したらしく、このパースペクティヴな真理到達の方法はつまり「見慣れた景色に潜むイデア♪ ~世界をリメイク♫」のポプテピピックwwwww
  ♥このクソアニメは音楽はやたらセンスがいいです(^^♪ あとAC部wwwww♥

   

はい、次(^ω^)

 突然な改宗はさんざん嘲笑を招いた。が、いまは私は、愛するもの、崇拝するものを持ち、ふたたび理想を得た。生活はふたたび予感と多彩な神秘的な薄明に満ちていた――それが私を無神経にした。あがめる像のどれいとして、召使としてであるにすぎぬにせよ、私はふたたび自分自身をわが家とするようになった。

一部のラブライバーみたいな奴ですね、こいつは(^o^)wwwww

シンクレールはエリちゃん推しでしたが(←いつの間にかそういうことになってるwwww)、僕はタヌキ顔の巨乳ちゃんが好みのタイプなので、僕の「ベアトリーチェ」は、のぞみちゃんということで(⋈◍>◡<◍)。✧♥♥♥
                 えり     のぞみ     

 ある種の感動なしにはあの時期を思い出すことはできない。私はふたたび、心からの努力をもって、崩壊した生活の一時期の残骸の中から「明るい世界」を築こうと試みた。私はふたたび、自分の中の暗いものと悪いものをかたづけて、完全に明るいものの中にとどまろうという、ただ一つの願いにひたり、神々の前にぬかずいて暮した。いずれにしてもいまの「明るい世界」は、いわば私自身の創造だった。それはもはや、母のもとへ、責任のない保護のもとへ逃げ帰りはいりこむことではなくて、自分自身によって考え出され要求された新しい奉仕で、責任と自制とを伴っていた。

ここに来て、少年シンクレールに内在するクリエイティビティが「自己意識の変革」となって発動されたようで、いつかどこかの記事で引用したヤスパースの言葉が思い返されます。

人間が挫折をどのように経験するかということは、その人間を決定する要点であります。
                 (中略)
人間が自己の挫折をどのように経験するかということが、その人間がいかなるものとなるかということを立証するのであります。

    ヤスパース 草薙正夫訳『哲学入門』(新潮文庫)「第二講 哲学の根源」


次の引用は、個人的には「こいつは潔癖すぎて、そのうち神経症にでも罹(かか)ってしまうんじゃないか?」みたいな記述に思われました。

私は性欲のもとに悩み、たえずそれからのがれていたが、いまこの神聖な火の中で性欲を変容させて、精神と礼拝にしようと思った。もはや暗いもの醜いもの、うめきあかされる夜、みだらな絵の前での心臓のときめき、禁制の戸の前での盗み聞き、淫欲などはあってはならなかった。それらいっさいのもののかわりに、私はベアトリーチェの像をもって自分の祭壇をたてた。

これは例えば、セクシー小宮さんを「性的な目」で見るのか、それとも「聖なるもの」として見るのか、この二律背反した事象をアウフヘーベンさせて高次なレベルで統合できる能力が、ひねこびた抑制の効いた成熟した大人の精神なのだと――そのような見解に至ると、ここでのシンクレール少年はまだまだ青臭いな、草生えるwwwwwwwwwww(^ω^)

 個人的で主観的な無意識バイアスによるところでは、小宮さん(⋈◍>◡<◍)。✧

このような小宮さんのアンビバレンツは、人類にとって普遍的で根源的な問題として哲学的な問いを立てられるだけのポテンシャルを秘めているようにも思われ、この拙ブログがどういうわけか小宮さんの画像を好んで貼りたがるのは、つまり、無意識のレベルにおいては、すでにそういった神秘性を看取していたものの、それが今頃になって、ようやく意識化されるまでに至った、そういうことでしょう(←謎精神分析、謎受動意識仮説)

「性的なもの」「聖なるもの」からなるアンビバレンツと、そこから生成される神秘性は、
「生命の真理」を成している何かでもあって、どうやらそれが小宮さんの魅力の源泉になっているらしい!?・・・ここにまた一つの仮説が成立したのであります(←謎哲学)

ところで余談ですが、高校生だった頃に英語の豆テストなどで「sex」という単語の形容詞を「sexy」とか書いて、級友たちから失笑を買った経験は誰にでもあるでしょう(断定)。 
そもそも「青春」とは、そういうものでなければならない!(これも断定)
・・・ちなみに、正解は「sexual」でした(^ω^)

 そして自分を彼女にささげることによって、精神と神々にささげた。暗黒な力から奪い取った生活の興味を、明るい力に対し犠牲としてささげた。快楽ではなくて清浄さが、幸福ではなくて美しさと霊性が私の目標だった。

このへんは、東洋思想がDNAのレベルにまで刷り込まれた享楽的で幸福主義的なスノビズムのメンタリティが自明な日本人の価値観では、到底理解し難いの無意識バイアスwwww

前回の拙記事で引用したニーチェアフォリズムに共通する何かを感じさせます(´ω`)

 このベアトリーチェ礼拝は、私の生活をすっかり変えてしまった。きのうまでは早熟な皮肉屋だったのに、きょうは、聖者になろうという目的をもった寺僧だった。慣れっこになっていた悪い生活を捨てるばかりでなく、私はすべてを変え、すべてのものに清浄さと高貴さと品位とを注入しようと試み、飲み食いにつけ、ことばや衣服につけ、そのことを考えた。
 朝は冷水摩擦に始まった。はじめのうちは、その克己が容易でなかった。私はまじめに荘重にふるまい、まっすぐに頭を起こし、ゆっくりと重々しく歩いた。見ているものにとっては、こっけいに見えたかもしれない――が、私の心の中ではそれは勤行にほかならなかった。

シンクレールの一念発起によって開始された「自己意識改革運動」も具体的な行動で実装するに当たっては、様々な試行錯誤を重ねたようです。

自らの生活態度を変革させることによって世界の刷新に努める方式のクリエイティビティは、
学歴・職業・経済力に関係なく、意志と行動力さえあれば誰にでも始められる至って現実的なもので、愚か者だったシンクレールにもなかなか賢明なところがあるようです(´ω`)

 私の新たな心境を表現するために企てたいろいろの新しい修行の中で、一つだけが重要なものになった。私は絵を描き始めた。自分の持っているイギリスのベアトリーチェの肖像があの少女に十分似ていないということが、ことの始まりだった。私は彼女を自分のために描いてみようと思った。

彼のクリエイティビティは、ここで一つのスタイルへと収束していき、一つの表現形式で実装されることとなったようです(^ω^)

「必要は発明の母」もとい「不満は創造性の母」と言ったところですかwwww

まったく新たな喜びと希望をもって自分のへやに――少し前から私は自分のへやを持っていた――美しい紙や絵の具や絵筆をそろえ、絵の具板やコップや陶器のさらや鉛筆を準備した。買って来た小さいチューブ入りの美しいテンペラ絵の具が私をうっとりさせた。その中に燃えるようなクローム緑があった。それがはじめて小さい白いさらの中で輝いていたさまが、いまなお目に見えるようだ。

絵画道具一式をそろえるだけの話ですが、ここの描写は美しいですね。文学的ですね(´ω`)

シンクレールは彼の納得のいく「ベアトリーチェ像」を描いてみようと、彼の試みを企画するわけですが、愚か者にして賢明なところもあるこの少年は、いきなり肖像画に入るような真似はせずに、まずは静物画や風景画で描画の技能を身に付けていったようです。

そうして、いよいよ彼の目的である「ベアトリーチェ像」を描く段階になりました。

彼は自らの記憶と空想を頼りに、その少女像を描き上げていきます。

何枚かの絵はボツになって、度重なるリテイクを経て彼は自ら納得のいく作品をようやく完成させましたが、その少女像はモデルとなった元の少女の姿からはずいぶんとかけ離れたものとなったようです。

彼の描いた「ベアトリーチェ像」は、あの通りすがりの彼を魅了した少女の顔よりは、むしろデミアンの顔に近かったそうで、これはまさに無意識バイアスかかってるwwwww

彼の「ベアトリーチェ像」は、彼の渾身の一枚だったに違いなく、彼は彼自身の作品によって何か神秘的な啓示を受けたようです。そういうこともあるある。わかる(^o^)

 ある初夏の夕方のこと、私のへやの西向きの窓から日が斜めに赤くさしこんでいた。へやの中は薄暗くなった。そのとき、私は、ベアトリーチェの、すなわちデミアンの肖像を針で窓の横木にとめて、夕日の光がそれをすかすのを見ようと思いついた。かおはぼやけて輪郭がなくなったが、やや赤くくまどられた目や額の明るさや強烈に赤い口は画面から深く激しく燃え出ていた。長いあいだ、それがもう消えてしまってからも、私はその絵に対座していた。するとしだいに、それはベアトリーチェでもデミアンでもなくて――私自身だという気がしてきた。その絵は私に似ていなかった――似るはずもない、と私は感じた。――しかし、それは私の生命をなしているものだった。それは私の心、私の運命、あるいは私の精霊だった。私がいつかまた友だちを見つけるとしたら、私の友だちはそういう様子をしているだろう。私がいつか愛人を得るとしたら、私の愛人はそういう様子をしているだろう。私の生も死もそのとおりであるだろう。それが私の運命の響きであり、リズムであった。

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この章の終盤は「えー、実は―、書き忘れてましたー。申し訳ないですー(^^;」みたいな調子で、「ただ今、体たらく真っ最中!!」だった頃のシンクレールが実家に帰省した時にデミアンと偶然に再開したエピソードが書かれています。

このエピソードをわざわざここに配置したのは、次の章の物語とのつながりをよくするため、
そういうことなんですかね???

それはさておき、個人的に印象に残ったシーンについて、順次述べていきましょう(^o^)
こっちも、もう疲れてきたので簡単にいきます。あしからず(^^;

「いや、それについて言い争うことはないさ。いずれにしても大酒飲みや放蕩者の生活は、非の打ちどころのない市民の生活よりおそらく活気はあるだろう。そして――いつか読んだことがあるが――放蕩者の生活は神秘主義者になる最上の準備の一つなんだ。聖アウグスティヌスのように予言者になるのは、いつもそういう連中だ。聖アウグスティヌスもかつては享楽児で道楽ものだった」

放蕩者の生活神秘主義になる最上の準備の一つなんだ。」・・・それな。わかる(´ω`)

今この場を借りて自分が「イデア」を語るようになった根底には「ニヒリズム研究」があり、その背景には放蕩者だった過去があって、これは私も通って来た道でした。遍歴でした。。。

「きみに不愉快なことを言うのは、ぼくの本意じゃなかった。それはそうと――なんのためにきみはいま酒を飲むのか、それはぼくたちふたりにはわからない。きみの生命を作っている、きみの内部のものには、それがわかっている。われわれの内部に、すべてを知り、すべてを欲し、すべてをわれわれ自身よりよくなすものがいる、ということを知るのはきわめてよいことだ――だが、失敬、ぼくは帰らなきゃならない」

・・・どこにどこに答えあるんだろー♪ 誰に訊いてもわからないー♪ ミライさ~♫
         
ラブライブ!サンシャイン!!」のTVアニメ2期は、またなんか上手い具合にキレイな感じにまとめて終幕しましたが、これは虚構の物語であり、ひとつのモデルであって、こういうのは受け手に対して「気付き」や「促し」の役割を果たすことができれば作品としては上出来だと思われ、個人的には大変に面白かったです(^ω^)

しかし、われわれが実際に生きている現実では、それはすぐには分からない。とにかく生きてみなければ分からない。「求めて待つ」姿勢が大事だったりもする(・ω・)

われわれの内部に、すべてをしるものがいるということを知るのは、きわめてよいことだ!」

これは、この拙ブログで「存在の根源」「存在の声」「いのち」「生命そのもの」などと呼んでいるアレのことでしょう。これらはまた「本来の自己」と言い換えてもよいでしょう。

このへんは、ほとんどユング心理療法プログラムですね(^ω^)

ここからシンクレールはデミアンに関する記憶を呼びさましていこうと努めます。

 クローマーのできごとまでさかのぼって、私はマックス・デミアンに関するいっさいの記憶を呼びさまそうと努めた。彼がかつて私に話したことがどんなにたくさんよみがえって聞こえてきたことだろう。そしてすべてがいまなお意味を持ち、切実であり、私に関係していた! 

 私たちの最後の、すこぶるおもしろくなかった、めぐり合いの際、かれが道楽ものと聖者について言ったことも、突然さまざまと心に現れた。私はそのとおりになりはしなかったか。酔いと汚れ、まひと背徳との中に生きはしなかったか。そのあげく、まさしく反対なもの、すなわち清浄への願いや聖者へのあこがれが、新たな生活衝動をもって私の中に活気づいてきたのではないか。

・・・ああ、私もそのとおりになりはしなかったか。そうそう、そうなんだよ!(´ω`)

 最後に、マックス・デミアンといちばん最初に会ったときのことが心に浮かんだ。あのときの話題はなんだったかしら? すぐには思い当らなかった。私はゆっくり構えて、すっかりその中にひたりきった。すると、それも浮かんできた。彼がカインに関する意見を述べたあと、私たちは私の家の前に立っていた。そのとき、彼は、門の上の、下から上にひろがっている要石についている、古い消え薄れた紋章について話した。これは興味がある、こういうものに注意しなければならない、と彼は言ったのだった。

シンクレールはこの記憶までたどり着いたことをきっかけに、彼の中にまた新しい作品の着想と制作の衝動が起こったようです。そうして、また1枚の絵を完成させました。

 できあがったのは、するどい精悍なハイタカの頭をした猛鳥だった。それは半身を暗い地球の中に入れ、その中からさながら、大きな卵から出ようとするかのように苦心して抜け出ようとしていた。背景は青い空だった。その絵をながく見つめていればいるほど、それは夢の中に出てきた彩色の紋章であるように思われた。

で、第5章のタイトルは「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う」

  このタイトルを見るや否や即座に連想されることは・・・アッゼリア~wwww

次回、また気が向いたら書きます。それでは皆さん、ごきげんよう(^o^)