【雑談】【哲学談義】われらが親愛なる斉藤朱夏ちゃんが最近に出演したラジオ番組で「”かわいい”というのが未だによく分からない…」みたいなことを語っておられたので、そのことについて助言する回

皆さん、こんにちわ(^o^)

ここ最近、巷をすっかり恐怖と不安に陥れてしまった新型コロナウイルス感染症対策として、今年のGWは「ステイホーム週間」ということになってしまい、「国民総ひきこもり」が国家を挙げて推奨される事態となりましたwww

「stay home」を直訳すれば「家に居とけ」なわけですが、ここからどういうわけか、大昔にビデオで見た「ウォリアーズ」という映画に、たしかこんなセリフ(日本語訳)があったのを、ふと思い出してしまったのでした(笑)

           女:「お願い、あたいも連れてって!」
           男:「お前は家で枕でも抱いて寝てろ。」

               「ウォリアーズ」(1979年)

    

それはさておき、今回の記事作成の動機となったのは、こちら(・ω・)ノ
    

この2つの番組内で、われらが斉藤朱夏ちゃんは「自分は”かわいい”というのがどういうことなのか未だによく分かっていない……」みたいなことを語られていました。

オタク向けコンテンツでは、業務命令で萌え萌えなキャラを演じさせられる機会も少なからずあるかと思います。

斉藤さんはオシャレに対しては興味津々で、しかし”かわいい”に対しては関心が薄く、傍から見ていて、そういった趣味の人のような感じがしなくもない???

そう言えば、10年くらい前に「デトロイト・メタル・シティ」というギャグマンガがあって、主人公の根岸君は本当はオシャレなポップスをやりたいのに事務所の命令でデスメタルバンドをやらされて、ミュージシャンとしては素の本人はほぼ無名の存在で、役柄のクラウザーⅡ世の方が世に認知されているという、そういう設定でした。

(左)オシャレなポップス歌手として世に認知されたい根岸崇一くん
(右)デスメタルバンド「デトロイト・メタル・シティ」のクラウザーさん(=根岸くん)

仕事の都合でやりたくない役を無理矢理やらされている根岸君の苦悩、爽やか好青年の根岸君と過激でクソなクラウザーさんのとてつもないギャップなどが主なギャグのネタとなっている救いようのないブラックユーモアな作品でしたが、そこに普遍性があったのか、実写化劇場版まで製作されて、連載当時はなかなかの人気作だったような記憶があります(^o^)

         実写化劇場版「デトロイト・メタル・シティ」チラシ

    

閑話休題。おすわちゃんは「かわいい」を素で志向している印象があるので、”かわいい”道を学習するには頼もしい存在かもしれません(^ω^)

   正攻法な”かわいい”の王道とコラボされた、おすわちゃん(⋈◍>◡<◍)。✧♥♥♥

    ♥5月には、1stアルバムもリリースされて、おめでとうございます(^^♪

アニメ「おねがいマイメロディ」の新作が制作されるようなことがあったら、諏訪ななかさんはメインキャストからは、もはや外せない存在???


書店やコンビニなどで、Aqours(アクア)のキャストメンバーの集合写真が雑誌の表紙を飾っているのをたまに見かけたりすることがあります。友人(ラブライバーではない)と一緒の時に、本の表紙を指して「この中でどの子が一番かわいいと思う?」と尋ねてみたことがあります。
                 サンプルです(^o^)

今まで2人にこの手の質問をしたことがありますが、2人とも「この子かなー」とか言いながら斉藤さんの方を指していました。ラブライブ!斉藤朱夏も知らない人たちからメンバーの中で最もかわいいと認識されてしまう斉藤朱夏ちゃん(笑)
朱夏ちゃんのアピールポイントは思うに、活発で元気で健康的で分数の足し算ができなくて、いわゆる「おてんば」とか「おきゃん」とかの要素が強みになっているような人で、素のままでも十分かわいいので、自分自身から敢えて”かわいい”を発動する時は、関西のお笑い芸人が標準語をしゃべる時のようなノリでやってくれればよいのではないかと、私的な見解ではそんな感じです。

ファンの一人としましては、彼女のことを地道に応援することしかできませんが、芸能界でのお仕事もなかなか大変だとは思いますが、体調を崩されることも、心が病むこともなく、いつまでも心身ともに元気でいてほしいと思います(´ω`)

        困り眉毛で犬好きの朱夏ちゃんには、このMVがおすすめ(^^♪
     

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ここからは哲学病の時間です(^o^)

さて、われわれが普段において何となく認識している「かわいい」という事象。

朱夏ちゃんによれば、それが「未だによく分からない」と言う。
自分が「分からない」ということを、彼女は自覚している。 

これは、言うなれば無知の知(ソクラテス)というやつでしょう(・ω・)ノ

この「分からない」を起点にして、それでは「”かわいい”とは何ぞや?」などといった問いを立て始めたりすると、それが哲学の出発点となります(^ω^)

哲学すなわちフィロソフィー(愛知の営み)は、周りからチヤホヤされてウハウハな気分を味わうことに対しては何の貢献もしてくれなさそうですが、しかしこれは自己理解の契機であるとともに自己の世界観がさらに広がって、より深く生きる機会をもたらしてくれるような可能性は大いに有り得るので、したがって「哲学する」ことは端的に良いことだと思います。

「分からないことが分かっている」というのは、生きていく上で大変に重要です(・ω・)ノ

仕事で重大なミスをやらかしたり、人生で同じ失敗を何度も繰り返したりするのは、大抵は「分かっていないことすら分からない」タイプの人で、これでは改善の見込みが全く立たないので、結果として、彼ら彼女らに自己意識の変革が起きない限り、死ぬまで不平や不満や不幸から抜け出せないタイプの類型、またそうした生涯になってしまいます(´・ω・`)

逆に言えば「自己意識の変革」によって救われる人生が有り得る。そういうことです。

ところで、一般的には「事実」に関する問題は科学の分野で取り扱い可能で実証可能な問題となり得るが、「意味や価値」に関する問題は科学では取り扱えず、そのような問題群は哲学することによって探究すべき対象となる。・・・たしかそういうことだったと思います。

例えば、リンゴの実が木から落ちたという「事実」は、とある天才的な観察者の直観と努力によって引力や重力加速度の法則の発見をもたらし、それは後世の科学技術の発展にとって多大な貢献となったわけですが、一方で、その落ちたリンゴを拾って「りんご可愛や、可愛やりんご」などと歌い出せば、今度はたちまち「存在の意味や価値」に関する問題、すなわち哲学的な問いが始まってしまうの連繋プレイwwwww

「昔、丸顔の可愛らしかった少女は、いつの間にか肥満した婆々(ばば)となり……」
・・・人生では、そういったケースも珍しいことではありません(^^;

一方で、若かった頃の可愛らしさを、さすがに今は老けたとはいえ、それでも相変わらず保ち続けている人というのも中にはいます。奇跡的なケースではありますが、驚きです!(゚Д゚)

 (左)公衆電話がコイン専用な黄色の筐体で、NTTがまだ電電公社だった頃の石川ひとみ
 (右)それから幾星霜の時が流れ、2018年にデビュー40周年を迎えた頃の石川ひとみ

石川ひとみさんの、この素敵な齢の取り方は「事実」の観点から捉えたならば、アンチエイジングのお題として生物学的・生化学的・医学的・人間科学的、すなわち科学的な分野のテーマとして取り扱えそうですが、しかし、ひとみさんは人生の途上で大病を患ったことがあって、その時の闘病生活の経験から健康に対する意識が高まって、そして現在に至っているらしく、このことについては、ひとみさん自身の実存的な問題であり、科学的な分析によって一般論に還元されてしまえる性質のものではありません。

彼女の生きざまを知れば、この人はアイドルの鑑(かがみ)みたいな人ですね(*´ω`*)

「かわいい」を哲学するうえで、石川ひとみさんの尋常でない可愛らしさは、ここは是非とも押さえておきたいところです(・ω・)ノ

           ちなみに、こちらは板橋区の「ひとみ」ちゃん

バカの美学「激烈バカ」ひとみちゃんを覚えていますか?- Middle Edge(ミドルエッジ)

 久しぶりに「ひとみ」のオムライスたべたい・・・そうだ、京都に行こう。(←ムリwww)
              ※画像は拾い物です。念のため。

京都のヘヴィ級グルメ★メガ盛りオム★☆「オムライスひとみ」【等持院 】- キョウトピ


それはさておき、世の中の問題群には科学的に解明されて一般論に還元できるものもあれば、一般論には還元できず哲学的に開明されるべきものもあります。

この問題は「事実」に関するものなのか? それとも「意味や価値」に関するものなのか?

問題に対するアプローチを決める上で、また、より妥当な解答や議論へと導くためには、こういった区別ができることは大事です。・・・ここもぜひ押さえておきましょう(・ω・)ノ

話は変わりますが、僕自身は「”かわいい”ってなんだろう?」の問いについては正直言うと、あくまでも傍観者的な立場にすぎなくて恐縮です(^^;

しかしながら、「”おもしろい”ってなんだろう?」という問いについては、特に今年になってから自作の記事を公開して閲覧数を見る度に考え込んだりします(´・ω・)

なお、このことについては次回の記事で言及することになると思うので、ここでは特に多くは語りません。ちなみに次回は、Aqoursちゃん5thアニバーサリーと自分のブログ開設5周年を絡めて語ってやろうと思いますwww(^o^)

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「意味や価値」に関わる問いの究極系は、生きること自体に対する問いとなるでしょう。
このステージになると、最高の善と最高の悪がせめぎ合っている次元になったりもします。

「生きがいのある人生の意味を求めての持って生まれた努力に関する幻滅」(V.E.フランクル)

・・・どこかぎこちない日本語訳ではありますが、言いたいことはわかる。おれも(´ω`)

30歳になる手前くらいだったか、僕もこのことによって精神的に病んでしまい、生きる意味、人生の意味への問いに長い間にわたって囚われてしまったことがありました(´・ω・)

この話題については、すでに過去のどこかの記事でも語ったことなので、もはやここで多くを語るつもりはありませんが、一体何のために生きているのかが分からなくなってきた時の徴候や症状としては、次のようなものがありました。

・激しい空虚感
・激しい倦怠感、激しい無気力
・とてつもない退屈
・感受性が著しく過敏になったり鈍くなったりする。

「人生に倦み疲れる」というのは、こういうことなんですかね?

自分は結局7~8年くらいの間、精神的に病んていたわけですが、中には「楽しい」という感情がほとんど湧かなくなってしまった時期とかもあって、あれはほとんど鬱の末期症状にあったように思いますが、あの時は「おれ、本当にヤバいんじゃないかな?」と思いました。

末期症状を感じて「ヤバい」と思えただけ、まだ救いようがあったと言えるかもしれません。そこで心のブレーキまで壊れてしまった人とかは、もしかしたら首を吊ったり、人を刺したりしてしまうかもしれません。。。(´・ω・`)

生きる意味、人生の意味
への問い
「意味や価値」に関する問題だということで、「事実」に関する問題の時のように絶対的な、確実性が保証されるような答えは存在しないでしょう。

この問いについて自分で考え行動して、やがては自分なりの確信(答え)に辿り着けた人というのも中にはいるかもしれません。

僕自身は、この問題に対する確かな答えというものは未だ分からないままです(^^;
しかしそれでも、議論することはできます。

この手の問題には、問題自体はなくならないが、それがもはや自分にとって問題でなくなることによって解決されたものとみなす。結局、答えが出ないままでも、いつの間にか解決できていた。すなわち、結果オーライみたいな。・・・そういった解決方法も存在します(^ω^)

生きる意味、人生の意味への問いに対する問題解決のサインは、先に挙げたような症状をもはや感じなくなって快復に至るということで、つまりこういったことです。

・激しい空虚感に苛まれることがなくなった。
・倦怠感や無気力感も日常生活を送るには支障のないレベルになった。
・とりあえず普通に動ける。退屈もさほど感じなくなった。
・美しいものや楽しいことに対して普通に心が動く。感受性の回復。

これらのサインを正しく受け取るためには、自分の思い込みに捉われることなく、心が素直な無為自然の状態であることが必要となるでしょう。そして、そのためには「無意識の世界」に関する知識を身に付けておく必要があるでしょう。

また、「悟性にとっては答えられない問いに対する問題解決方法」が可能になるのは、内面的な覚醒や成長によるものです。すなわち「自己意識の変革」が問題を解決に導くのです。

この手の問題については、自分から何も行動を起こさないで「絶望に効くクスリ」をただ求めているだけでは、天国に行けるまで解決することはないでしょう。かといって、自殺してしまうのには納得がいきません。求めるにしても、それなりの努力は、やはり必要です。

自分自身が経験した「内面的な覚醒や成長」「自己意識の変革」は、およそ次のような流れを辿ったように思います。簡単ではありますが、記述しておきましょう(・ω・)ノ

(1)世間の世俗的な価値観を自明のものとして無批判的に鵜呑みにしていた。
 ↓
(2)自己中心的な人生観の限界
 ↓
(3)世界中心的な人生観の発見
 ↓
(4)世俗的な幸福主義の相対化と超越
 ↓
(5)超俗の超然とした人間存在・人生の在り方を認知・受容する。

これは自分の人生において、かつて辿ってきたプロセスではありましたが、しかしこの流れはニーチェの『ツァラトゥストラ』で説かれる「三様の変化」やキルケゴールの説く「実存の三段階」にも類似しているようにも思われて、「ああ、これが人生なのかー!」などと妙に納得してしまったのでした(笑)

ニーチェの「三様の変化」とキルケゴールの「実存の三段階」については、実際に作品や哲学の解説書などを手に取って読んでもらうことをお勧めしますが、とりあえず参考になりそうな記事のリンク先を貼っておきましょう(^o^)

ニーチェの言う三段の変化とクリエイティブシンキング|慶應義塾大学 中西泰人研究室
 
センター試験にキルケゴールの実存への3段階 - グーグーパンダが語る 本当の幸せって何?

これらの言説とともに、4~5年ほど前に読んだヘルマン・ヘッセの『デミアン』という小説は、これは自分の人生において出会うべくして出会ったものと思われ、個人的には大変に面白い作品だったので記事のネタにも使わせてもらいましたが、特に次の記述ついては自らの体験からして、全く他人事ではない自分事に思えてしまったのでした。(゚Д゚)

神がわれわれを孤独にし、自分自身に立ち帰らせる道はいろいろある。その当時、神は私に対し上述の道を取った。それは悪夢のようだった。

人生において社会化していく過程でペルソナ(仮面)を身に付けていった私。あの時に精神的に病むことになったのは、自分が「本来の自己」からどんどんと遠ざかっていった成れの果ての姿だったのではないかと、今となっては、そのようにも思います。。。(´・ω・)

       涙 流して消えなくてもー
          そこにある心 裏の裏を肌で感じてー♪
               鍵掛けてしまった その想いもー
                    全てに意味があると信じてー♪



 のぞみ:「人生には、孤独な人だったから叶えられた出会いというのもあると思うんよ。」
    えり:「そうね。わかる気がするわ。」

今は生活のために非正規雇用の工場労働者に身をやつしては屈辱的奴隷労働に耐え忍ぶ毎日。自由市民や高等遊民のステータスにあった没落前の頃が懐かしい日々。ぴえん。(´;ω;`)

おれには為すべき使命があるんだよ。おい、バードマン。コピーロボットおくれ。(゚Д゚)ノ

そもそも、私の本分は「自分がそのために生き、そのために死ねるような真理」を求めては「心の旅」を続ける「イデアと実存」の探求者。そして旅の遍歴を記録する者。

私は自らの人生経験によって「己を顧みずに、人に何かを与える側の人間」となるべき運命にあったのだ!――運命は私をして、私の人生をそのように為らしめたのであった。( ;∀;)

生活のための労働から解放された時間を使っては、こういった記事を作ったりして心の平衡をなんとか保っているわけですが、今年のGWはステイホームの要請がなされているとはいえ、それでも瞬く間に終わっちゃいそうwww・・・たのむぜ、のぞみちゃん(`・ω・´)

           のぞみ:「大丈夫。うちに任せとき!」

次の記述はV.E.フランクルの『それでも人生にイエスと言う』からの引用で、これはもう50年以上も昔の演説か何かでの言葉ではないかと思いますが、これには僕も同感です。

僕の経験においても「ニヒリズムからの出発」は「イデアへの新たな旅立ち」なのでした。

 現代の哲学が、世界を、無から成り立っているかのように考えているのも、不思議ではありません。しかしながら、私たちは、このようなニヒリズムを通り抜け、悲観主義と懐疑を通り抜け、……新しい人間性に、いまこそ到達しなければなりません(V.E.フランクル

これまで述べてきたことを踏まえると、この楽曲は大変に親しみを感じて大好きです(^^♪
    

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今回の記事は、作成を開始した段階では”かわいい”談義に終始するものと思っていましたが、またなんか、話が予期せぬ方向に進んでしまいました(^^;(←確信犯www)

ここまで語ってきたことについて、少しおさらいしておきましょう。

・「無知の知」(ソクラテス)・・・哲学が始まるとき。

・「”かわいい”とは何ぞや?」・・・これは「意味や価値」に関する問題である。

・「事実」に関する問題というのは、
         科学的に解明できて一般論に還元できる性質のものである。

・「意味や価値」に関する問題については一般論には還元できず、
          哲学することによって開明していくべき性質ものである。

・「意味や価値」に関する問題の究極系は、生きること自体に対する問いである。

ここで「解明」(解き明かす)と「開明」(開き明かす)の違いに着目しましょう(・ω・)ノ

  「意味や価値」に関する問題の究極系は、生きること自体に対する問いである。

と、そのように述べたわけですが、これがなぜ究極系なのかというと、この問題の核心は要は「自己意識の変革」つまり「世界の見方・見え方」に変革を促すことにあって、”かわいい”に対する問いも、結局はその中に包含されてしまう・・・つまりそういうわけです(^o^)

ここまで来たところで、”かわいい”の哲学談義も少しやっておきましょう(^ω^)

ここでは、次に挙げた項目からアプローチをかけて、周辺にある概念との差異などに着目しながら「かわいい」を浮き彫りにしてみましょう。

【1】語源を調べてみる

【2】類義語と比較してみる

【3】反対概念や対概念と比較してみる

【4】”かわいい”と感じた対象について、なぜそう感じたのか考えてみる

【1】語源を調べてみる

「かわいい」という概念について考えるわけですが、まず思いつくのは、ことばの成り立ちを調べてみることが必要だと思います。

ウィキペディアに語源に関する記述があったので、それを読まれるとよいでしょう(^o^)

可愛い - Wikipedia

【2】類義語と比較してみる

「可愛い」(かわいい)の類義語として「愛らしい」「愛すべき」などの言葉が思いつきます。

「愛らしい」は「可愛い」と同義なように思います。
「守ってあげたいこの笑顔」みたいな気持ちを惹起させるイメージがあります。
  
           「愛らしい」の具体例(⋈◍>◡<◍)。✧♡

「可愛い」は漢語調に変形すると「愛ス可(ベ)シ」となるでしょう。
そして「愛すべし」の下に名詞くっついて連体形になると「愛すべき」となって、使用例としては「この愛すべき善子さんは……云々。」みたいな感じですか(笑)

「愛すべき○○」は「かわいい」とはひと味違ったニュアンスが込められているようですが、そのへんについての分かりやすい説明があったので、リンク先を貼っておきましょう('ω')ノ

愛すべき友人の使い方は正しいですか?- Yahoo!知恵袋

【知恵袋の記述内容から】
しかし、「愛すべき○○」と名詞を修飾する表現の場合は、「人間くさいところがあり好感のもてる」という意があり、「憎めない・愛敬のある・人好きのする」というニュアンスがあります。
(これは、国語辞典にも採録されているとおりです。)
この点が一般的に使われる「~すべき」と異なり、<愛さずにはいられない>という情動の意が強くなります。


             「愛すべき○○」の具体例(´ω`)

【3】反対概念や対概念と比較してみる

「かわいい」の反対概念としては「醜い」「不細工」「気持ち悪い」「気色悪い」などの言葉が挙げられるでしょう。

これで思い出したのはカタツムリとナメクジの両者で、好感の持てるイメージと嫌悪感を催させるそれ。しかしニラ農園の経営者をしているとある知人は「カタツムリは畑にとっては害虫なんです」と言ってぶち殺していました。なるほど、食事の時は合掌して「いただきます」と一礼しなければいけません(・ω・)ノ

「かわいい」の対概念は「カッコいい」ということになるんですかね?

アニメ「キラッとプリ☆チャン」の第2期では、”かわいい志向”のキャラと”カッコいい志向”のキャラがコンビを組んでデュオユニットを結成していました。対概念キャラの融合によるコラボレーションですね(^^♪
        まりあ(かわいい系キャラ)  すず(カッコいい系キャラ)

【4】”かわいい”と感じた対象について、なぜそう感じたのか考えてみる

これについては、自作の過去記事に使えそうなものがあったので、そのリンク先を貼っておきましょう。これは「ラブライブ!サンシャイン!!」のテレビアニメ1期をやっていた頃に作った記事です。懐かしいですね(´ω`)

【ネタバレあり】【ラブライブ!サンシャイン!!】曜ちゃんの女子力について語る回

  曜ちゃんはフェラガモの香水とかよりもシーブリーズの方が似合いそうだ!?

今回の記事は、はっきりとした結論(答え)とかはなくて、あえて結論らしきことを言えば、「ものの見方・見え方」がより広く深くなっていくことに従って、感じ方(感性)もより多彩なものへと磨かれていくのではないかと思います。

結果として「ものの見方・考え方」について語ることに終始していたように思います(^^;

言うなれば、今回の記事は「人生の味わい」に関するレシピを紹介したようなもので、あとは読者諸賢のめいめいが調理されて試食されるとよいでしょう(^ω^)

最後にどうでもいい話ですが、上の子(マロンちゃん)に釣られてこのゲームを始めましたが、登録・開始して下の子(イリンちゃん)は間もなくメンバーに加わりましたが、僕としましてはマロンちゃんに早く会いたいんだけど。。。

で、個人的にはマロンちゃんの方が好みのタイプだというのは、これは一体なぜなんだ!?
もちろん、イリンちゃんの方がタイプという方もおられるでしょう。(←ここ哲学)

自分の中に「おれにとってのかわいい女の子とは、こんな感じ♡」みたいなイデアがあって、
これは一般的に「好みのタイプ」とか「理想のタイプ」とか呼ばれていますが、マロンちゃんがその概念を具象化したものとして、自分にはそう見えた。そういうことなんですかね(笑)

それでは、世界情勢がコロナなことになっているこのご時世、心身ともにご自愛ください。