「日本の”萌えアニメ”のよさについて語る」「萌豚くん vs ネットフェミニスト」他1本
皆さん、こんにちわ(^o^)
確定申告ウザいです(´・ω・`)
今回は前回の続きです。前回の記事は次のとおりです。
「 日本人だけど日本のアニメの良さがわからない」という日本人に、まずは”日本の良さ”から教えて差し上げる回(序章)
上の記事が、投稿後1週間してから宣伝されていたので、正直、驚きましたwww
コメントをくださった皆さん、ありがとうございます。僕も結構、叩かれました(^^;
そんな中、こっちを弁護してくださった方もいたようで、「地獄の中にも仏」です(*´ω`*)
しかし、僕が言うところの「萌えキャラ叩き隊フェミニストおばさん」は、放置しておけば、やがてルサンチマン人間たちと呼応して、いつの間にか「表現の自由に対する圧力」へと発展してしまいそうな恐れがあります。
志摩市の萌えキャラクター「碧志摩メグ」公認撤回へ デザイン変えず「非公認」として活動は継続、励ましの声も【ねとらぼ】
「オンナノコをお飾りに使う文化」 京都市営地下鉄の女子高生キャラがネットフェミニストの標的に!? 【ガジェット通信】
上の事例は「人間の精神を硬直させ萎縮させる、文化衰退の温床にもなりかねない事案」だと思われ、個人的に何やら引っ掛かるところがあったので、反撃の「のろし」をあげました。
こういう人たちを否定はしませんが、批判はしたくなります。。。
「こいつ、なに大げさなことを言ってるんだ?」と思われる方もいるでしょう。
しかしよくよく考えてみれば、現実の歴史においても、ナチスは最初は民衆からすれば滑稽な団体にしか見えなかったわけですが、「政治信条は人それぞれ」と良識的な人々がスルーしている間に、いつの間にか、巨大な犯罪組織へと成長して、人類史上類稀なる大量殺戮機関へと変貌したわけです。こわいですね。。。
「表現の自由」に対する脅威は、「自由に対する脅威」への兆候があって、こわいのです。
なので、本能的な生命の要求として、何か物申したい欲求に駆られたわけですwww
前回の記事が宣伝された時は、今回の記事は3分の2くらいが出来上がっていました。
今回は、次の3部構成になっています。
(第1章)前回の、あのおばさんのパーソナリティついて社会心理学的考察を試みる
(第2章)日本の「萌えアニメ」のよさについて語る
(第3章)萌豚くん vs ネットフェミニスト
また例の悪い癖で、今回もだらだらと長ったらしい記事になってしまいました(^^;
ファーストフード感覚で読むとイライラしてくると思います。予めご了承ください。
前菜、メインディッシュ、デザートくらいな感じで読んでいただければ、幸いです(言い訳)
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★【第1章】前回の”あのおばさん”のパーソナリティついて社会心理学的考察を試みる★
前回・今回の記事を書く動機になったのは、次の記事です(^o^)
日本人だけど日本のアニメの良さがわからない【ニコニコニュース】
上の記事に登場する「質問者」のおばさんは、質問コーナーのサイトまで遡って閲覧してみると、「オタク文化が大嫌いで、萌え系の絵が病的で気持ち悪い」のだそうです(´・ω・`)
❤つまり、こういう絵は「病的で気持ち悪い」ということらしいです・・・解せぬ。❤
❤あのおばさんは、この作品が大好きらしいです。いい趣味だと思います。❤
❤欧米が大好きなら、こういう絵はポップでキュートでオサレに見えるでしょう❤
❤ならば、これもポップでキュートでオサレ❤
❤したがって、これもポップでキュートでオサレ(けつろん)❤
あのおばさんの性格は、何となく見当が付きます。
「文化的レイシスト」「芸術的スノッブ」の疑いがあります。
日本、韓国、中国、台湾などの極東地域の文化に愛想を尽かして、技術的にではなく精神的に脱亜入欧したがっている態度は、言っちゃ何ですが、ある種のレイシズムを思わせます。
異国の人と交流する時は、自分が相手から「彼にとっての日本人代表」に見なされることも考えられます。そうなった場合、自国の文化を愛していて異国の文化にも興味があるくらいでないと、話がシラケてしまうかもしれません。。。
これは東欧・西欧の話ですが、チェコ人のミュシャは、若い頃にパリで修業して、名を上げてからチェコに帰って、以後、祖国の芸術の発展に献身しました。
ミュシャは、いわばコスモポリタンな存在とも言えそうですが、民族的なアイデンティティは、はっきりしていたようです。
❤ミュシャ「ヒヤシンス姫」(1911年)❤
「スノッブ」とは辞書的には「俗物」「俗物根性」の意味ですが、この記事の文脈に照らし合わせて言えば、文化や芸術を「こんなオレ、スゲーッ! イケてるーッ!」みたいに、自分に箔を付けるための手段にしてしまうような人たちです。
スノッブは対象の愛し方が自己中心的なので、その良さについて表面的にしか語れない、対象の精神性にまで入り込めない。反対に、なぜ良くないかについても「生理的に受け付けない」とか小並感な主観論でしか語れない。これもやはり対象の精神性にまで入り込めていない。
「愛せない場合は通り過ぎよ」とニーチェも言ってたぞwww
「知らないし、興味もないので分からない。」
・・・これはあくまでも趣味に関する話なので、このような返事で済ませておけばよかったところを、自分の箔(スノッブの箔など所詮はメッキに過ぎないのだが)に傷がつくことを恐れたのか、ここであえてオタクの癇に障るような、さらに言うならば、オタクの存在理由を否定して逆鱗に触れるような発言を行った。わが身可愛さに、単なる趣味の違いを宗教的な対立のレベルにまで引き上げた。・・・これが、あのおばさんの罪状です。
人は誰しもスノッブの要素を持ち合わせているものですが、僕ももちろん持っているわけですが、ただ、これを自覚している人とそうでない人とでは、明らかに違いがあります。
例えば、ヘイト要素を含む発言を行う際には、内省的な内容も併記するなどして議論の慎重さや公正さを考慮するとか、そのへんの態度に自ずと違いが現れてくるように思います。
無自覚なスノッブは、反内省的な態度を取りがちです。
こういうのは、知識や能力が問題なのではなく、「態度」が問題なのです。
以上の手続きを踏まえると、あのおばさんは「オタク文化の冒涜者」として批判を受けるだけの正当な理由があるので、社会心理学のスノビズム研究の標本として、ちょっと学術的に社会に貢献してもらいましょう(^o^)
ニヒリズム(無価値化)の精神を生成するものは「嫉妬」である。嫉妬は自分が無価値化されることに対する恐れ、すなわちニヒリズムに対する恐れから生じる。
・・・この命題を真と仮定して、ここで適用した場合、話が上手くまとまりそうです。
あのおばさんの本心にあったもの・・・それは「かわいい女子」に対する嫉妬、それをチヤホヤする男どもに対する憎悪だったのではないか? また虚栄心の強さからして、おそらく同性であるジャニオタや腐女子のことも見下しているでしょう。
・・・これは、まさしくスノッブの所業と言えますねwww
たぶん、あのおばさんは、ここで説明したような性格ゆえに孤立して、人生に大変な寂しさを感じていたのではないかと思います。無駄な抵抗はやめて、おとなしく腐女子にでもなっておけば、この人はもっと自分自身になることができて、今よりももっと幸せな人生を送ることができたかもしれません。
余計な見栄や外聞にこだわらず、萌豚・声豚の楽しさを普通に享受している立場からすれば、そのように思います。。。
この章の最後に、「日本のアニメの良さ」について、僕も少し考えてみようと思います。
日本は、世界的に見てもマンガやアニメの生産・消費が盛んな国で、「マンガ・アニメ大国」として海外からの関心も高い。この現象は、ノリとしては、例えば、餃子の消費量が日本一ということで、栃木県宇都宮市の存在が全国に知られることになったり、香川県がうどん県として認知されたり、それと似たようなものでしょう。
物質的な資源の乏しい日本で、工業製品の輸出も昔と比べれば落ち込んで、国内の需要も飽和状態にあって、他に何か売り出せるようなものはないのか? そこで「マンガ・アニメ大国」の強みがあることに目を付けて、これが経済効果にどれだけ足しになるかは分からないけど、使えるカードは使いたい。100円の茶碗もアンパンマンの絵柄を付けたら400円で売れる。
日本が保有する文化的資産の活用、日本の「付加価値」をもっと世界に売り込めーッ!!
クールジャパン戦略は、文化的資産が持つ付加価値を活用したブランド戦略・経済戦略であることを何卒ご理解の上、あまり冷めた目で見てやんないでください、みたいなwww
純粋に表現技法として評価するのであれば、日本のアニメが海外のアニメに比べて優れているということは、たぶん、それはないだろうと思います。とはいえ、観衆に訴求する力を持った良い作品はいろいろと出ている、そのようにも思います。
もし、「日本のアニメの良さ」を包括的、客観的、体系的、真面目に語ろうとすると、それは一つの立派な文化研究で、もはや素人の手には負えない仕事となって、この仕事自体が文化的創造行為に該当しそうです。境 真良『アイドル国富論』のようなノリの内容だったら面白そうです。そういう本が出回っていたら、読んでみたいです。
素人レベルでは、せいぜい自分の好きな作品について、ぐだぐだと語るくらいが関の山でしょう。なので、僕のブロマガの記事のほとんどは「ラブライブ!」のことばかりです(笑)
以上の理由から、「日本のアニメの良さ」について語るのは、研究費用の援助でもしてくれない限りやりたくないですが、またそんな頭脳もないですが、とはいえ、ジャンルを絞り込んで「日本の萌えアニメのよさ」については、これは趣味の範囲でも語れそうです。
それでは、章を改めて、さっそく検討してみましょう(^o^)/
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★【第2章】日本の「萌えアニメ」のよさについて語る★
今季の覇権アニメは『大家さんは思春期!』に間違いありませんね!(^ω^)
リアルでは100%あり得ないような設定ですが、それゆえに、ここで展開されるストーリーはわれわれにとっての永遠の理想郷でもあり、前田は女子中学生とホステスに構ってもらえて、これはあたかも”男のロマン”を体現したような世界観です。
ただぼんやりと見ているだけで、むしろ、そういうふうに見た方が、より作品世界に没入することができて幸福な気持ちになれるかもしれません。前田は、何となく自分と重ねやすそうなキャラに思えるので、作品世界にも入りやすく癒されます(*´ω`*)
❤チエちゃんは、かわいいですね❤
❤チエちゃん弁当❤
なお、僕が「チエちゃんかわいい」と言った時の心情は、清少納言が『枕草子』で「小さきものはみなうつくし」と言った、それと同様の趣旨なもので・・・清少納言には世界がどのように映って、世界をどう感じ取っていたのか、その気持ちがよく分かります(ウソこけwww)
枕草子 - 第百五十一段 『うつくしきもの…』 (原文・現代語訳)
こっちの記事はイラスト付きで、さらに親しみやすいです。
うつくしきもの:高校古文こういう話
ところで、たしかにチエちゃんはかわいいですが、それはあくまでも清少納言と同じ感性なのであって、恋愛対象として見るとするなら、関心は「中の人」のシカちゃんの方ですよね❤
余談ですが、萌豚は声豚であることも併記しておくと、ロリコン疑惑のアリバイとなって誤解されずに済むかもしれません(???)
❤”シカちゃん”こと久保ユリカさん(今年で27歳)❤
この記事で”男のロマン”などと言い出すと、個人的な趣味の話では、当然、『源氏物語』にも言及しなければなりませんね!(^o^)
記憶によれば、たしか18歳の光源氏が9歳か10歳くらいの紫の君に一目ぼれして、どうにかこうにかして、この子を引き取ることに成功して、養育して、自分好みの、もとい自分にとって相応しい女性に育て上げ、後に妻として迎えるという、そんなエピソードがありました。
3分で読む源氏物語・あらすじ/若紫~光源氏がヒロイン紫の上と初めて出会うシーン
光源氏と紫の君の馴れ初めのシーンを高校の頃に古典の授業で習ったはずですが、内容はすっかり忘れてしまいました(^o^)
ちなみに「紫の君」は、結婚後は「紫の上」と呼ばれることになって、才色兼備で気配りができて機転が効いて、相手に気を利かせてわざと負けてやることも出来る、粋で風流でパーフェクトな女性として描かれていて、そんな感じだったと思います。
・・・高校の古典の時間に、先生の趣味で『源氏物語』は教科書の内容を超えた範囲までやりましたが、自分の記憶も当てにならない怪しいもので、念のためとはいえ、すみません(^^;
❤紫の上(平成時代)❤
『源氏物語』の作者とされる紫式部は女性で、紫の上というキャラは紫式部の投影と考えても差し支えないように思いますが、そうなると、この人には、もしかしたら、そのような願望があったんでしょうか???
この作品は小説であって、つまりは虚構なので、もしかしたら、作者は読者が喜ぶようなネタ(すなわち”男のロマン”を体現したような話)を意識していたのかもしれません???
・・・そう解釈すると、『大家さんは思春期!』につながるものを感じさせますね(^ω^)
その一方で、これは”あらすじ”にざっと目を通しただけの理解で恐縮ですが、紫の上は当時の一夫多妻制の夫婦生活の中で、自分の不安定な身の上に無常を感じるなどして、最後には精神的に参ってしまい、やがて病死してしまうのだそうです。
物語の途中から、紫の上は悲劇のヒロインとして描かれていくようです。これは、作者による男性中心の社会に対する批判にも見て取れそうです。考えようによっては、当時の貴族階級の女性たちの気持ちを代弁したのかもしれません。
ところで、一昨年くらい前でしたか、岡山県倉敷市で「光源氏計画」を実行して小学5年生の女児を誘拐して監禁して捕まったおっさんがいましたが、「本気で子のこと結婚したかった」などと供述していたらしいですが、『源氏物語』は虚構ですから。。。バカですねwww
萌豚にとって、マンガやアニメ、ゲームやイベントを楽しめない人生は、ほとんど生きる意味を奪われるに等しいので、それが萌豚の犯罪抑止にも役立っていると思われますが、それでも犯罪を起こす奴は起こしますねえ。。。迷惑ですね。。。(´・ω・`)
❤紫式部:知性のうちに秘められたデカダン❤ ❤清少納言:利発で活発そうな才女❤
❤平安時代の文豪も千年以上が経過した平成の時代では、ほれ、このとおり(^ω^)❤
さて、清少納言や紫式部を持ち出したところで、ここで今や、現代日本の美的理念とも呼べるようになった(?)「萌え」について、自分なりに考えてみたいと思います。
清少納言と紫式部の各々の作風については、前者は「をかし」、後者は「もののあはれ」で、そういうのを習った覚えがありますが、この両者の趣き、この日本の伝統的な美的センスは、千年の時代を経て、現代における日本の美的センスである「萌え」を構成する要素となった。見方を変えれば、「萌え」に統合されることとなった。そのように解釈できるでしょう。
「萌え」の概念には諸説があるみたいですが、これを日本的な美意識として捉え直すならば、外面上は「をかし」の風情を漂わせつつも、内面には「もののあはれ」の情趣が感じ取られ、このような、いわばダブルスタンダードな感性として定義し直すことができるのではないかと思います。もっともこれは個人的な持論にすぎませんが。。。
そんな小難しい理屈を持ち出すまでもなく、なるほど、ただ単に、可愛いものを「かわいい」と表現したものが「萌え」なのでしょう。はい、そのとおりです(^^;
しかし、その精神性にまで踏み込めば、例えばモテない男が「萌え―っ♡」と発言した場合、そこには、いわば「モテない男の哀歌(エレジー)」が伴っているわけで、これはつまり、客体に対して「をかし」を認識すると、それと同時に、主体と客体の関係性においては、すでに「もののあはれ」が発生しており、そこに、対象に向けて発する「美感」と対象との関係性において起こる「哀感」という、ダブルスタンダードな独特な感性が見出されるのです。
なので、モテ男が普通に「萌え」と言ったところで、なぜかそこには言霊が宿らないのです。
しかし、彼奴がもし「サンリオ男子」だった場合、彼の発した「萌え」には、しっかりと魂が宿っているのです。例えば、彼がマイメロを好きだったとすると、そのような男子はマイノリティな存在なので、そこに哀感が伴って「もののあはれ」が発生するのです。(謎理屈)
【サンリオ男子】サンリオ大好きな5人のイケメンがひたすら可愛い。【キュンコレ】
♦これが「サンリオ男子」らしいぞwww♦
そして「萌え」を上述のように定義するならば、これを端的に抽象化することに成功した存在といえば、やはりこのキャラでしょう。
♦ティッピー♦
「ごちうさ」の作品世界には、主要なキャラのかわいさも然ることながら、ティッピーがさり気なく存在感をアピールすることで、単にかわいいだけでは済まされない、見る者を知らず知らずのうちに惹き込んでは離さない、何やら摩訶不思議な力のはたらきが感じられます。
いわば「ティッピー効果」によって(?)、今や横綱級萌豚アニメとして不動の地位に君臨した「ごちうさ」ですが、ガジェット類の質の高さなども相乗して、「萌え」を語る上では大変に優れた作品だと思われます。
❤「ごちうさ」こと『ご注文はうさぎですか?』❤
気の赴くまま、つれづれなるままに、ここで「ごちうさ」を味わってみましょう(^o^)
青山ブルーマウンテンこと青山翠先生の小説『うさぎになったバリスタ』は、喫茶「ラビットハウス」の初代マスターをモデルに、ティッピーの素性を物語化した作品という設定でした。
具体的な内容は分かりませんが、この『うさぎになったバリスタ』には、たぶん「をかし」と「もののあはれ」の美的理念が、作中の随所に鏤(ちりば)められ、詰められいるのでしょう。そのことは、本の表紙からも窺(うかが)えそうです。
泣ける話でもあることから、人情の機微を丹念に拾い上げた作品であることが想像されます。そんな作品が書けるようになれるといいですね!(^o^)
❤ペンネーム”青山ブルーマウンテン”こと青山翠(あおやまみどり)先生❤
このように、「萌え」を構造的に解釈すれば、こちらのキャラも負けてはいませんね!
❤貧乏貴族シャロちゃん❤ ❤シャロちゃんの屋敷(右端)↑↑❤
ここでは先に”分析型”のインテリジェンスな「萌え」について語ってしまいましたが、説明的なものを必要としない”直情型”のプリミティブな「萌え」についても触れておきましょう。
これについては、余計な説明は最小限にして、絵に語ってもらった方がよいでしょう(^o^)
❤萌える絵❤ ❤燃える絵❤
❤●REC❤ ❤●REC❤
❤ブヒィィィィィ❤ ❤癒される絵❤
❤ああ、いっそのこと豚になりてえ❤
「こちうさ」の舞台は主に、フランス東部にあるコルマールという中都市がモデルとなっているようですが、登場するキャラは日本名で、中には日本情緒にあふれたキャラもいたりして、何やら「和魂洋才」の趣が感じられます。
❤うじ松さん❤
TVアニメ『ご注文はうさぎですか?』で巡るヨーロッパの旅 ~美麗な景観に思わず、こころぴょんぴょん・ぽいぽい♪♪【アニメイトTV】
ディズニーやジブリのモデルとなったフランスの街「コルマール」が美しい【Ecom フランス語ネット】
フランスかぶれで日本文化を愛し、そして無類の女好きだった耽美派の小説家、永井荷風。
先生が今も生きていたら、「ごちうさ」を大変にお気に召していたかもしれません???
♦存命中の荷風先生♦
そもそも「萌えキャラ」「萌えアニメ」というのは、基本的には恋愛難民の状態にある男どもをターゲットにしていると考えても差し支えないでしょう。これでは女性やモテ男が見ても、いまいち面白みが感じられないのも、ごもっともな話だと思います。
しかしながら、「萌え」は「空虚で殺伐とした現実」を少しでもマシなものに変えていこうとする努力の一つだったりもするので、そこを押さえておくことが「萌えアニメ」の良さを理解するポイントになるのではないかと思います。
これを近代日本文学史の文脈に置き換えるならば、写実的なリアリズム追及の自然主義に叛逆して袂を分かつこととなった「耽美派」のスタンスに通じるものがあるでしょう。
また、「萌えアニメ」に対する批判としては、こっちの方がよく言及されていることだと思いますが、「テーマ性が薄っぺらい」との意見があります。これについては、「萌えアニメ」の鑑賞には審美学的な側面もあるので、「耽美派のスタンス」が不可欠なように思われます。
「話の内容が薄っぺらい」の意見には同感です。しかし風情や人情といったものは作品の中にしっかりと描かれていて、しかも「萌えキャラ」には”男のロマン”が凝縮されている。
ちなみに『源氏物語』も「明確な主題は定かでない」と言われている作品なのだそうです。
「萌えアニメ」の鑑賞において肝要なのは、作品の「主題」ではなく、「味わい」なのです。
「萌えアニメ」作品の「味」が分かるためには、まずは男性であることが第一条件になるとは思いますが、それに加えて「萌え」の美的理念、ひいては、その土壌となる日本の大衆文化に対する理解がなければ、作品の面白みを十分に堪能するのは難しいでしょう。
・・・「萌え」の味わいは、極限農法で育てたトマトのようなものです(???)
ここでは少ししか触れなくてファンの方には申し訳ないですが、横綱級萌豚アニメで東の横綱といえば「ごちうさ」でしたが、西の横綱といえば「きんモザ」ですね(^o^)
この作品は、”日本大好きイギリス人”のアリスと”西洋大好き日本人”の忍が主人公となって、それに他のメンバーたちが加わって、ほのぼのとした物語が展開される日常系アニメでした。
アリス以外のキャラクターの苗字に、京都市内の通り名が当てられているのも一興ですね。
❤日本びいきのイギリス人留学生アリス。西洋がぶれな大和撫子の忍❤
「きんモザ」の作品世界に、何やら異様に「萌え」てしまうのは、実のところ、アリスがホームステイ先の日本で、忍との友情を育んでいく日々の生活の中で、小柄で華奢なアリスが日本の文化を体を張って吸収していこうとする、そのけなげな姿にあったのではないかと、そんなふうにも思います。
アリスが日本の文化を体得していく過程を通じて、そうして、われわれも「萌え」のこころを会得していく、つまりそういうことですね(^ω^)
このように解釈すると、「きんモザ」の驚くべきところは、強力な「萌え」を発生させる仕組みが、すでにキャラ設定の段階で構造的に埋め込まれていた、そのへんに求められそうです。作者の原先生は天才かもしれませんね!スゴいですね!・・・以上、我田引水の説でした(笑)
❤「きんモザ」こと『きんいろモザイク』❤
これまで、男目線で「萌え」について語ってきました。しかし男性に限らず女性においても、「萌え」の美的理念と日本の大衆文化について、その精神性のレベルまで掘り下げて理解に努めるならば、要は、モテない男の気持ちさえ分かってくれれば、「萌えアニメ」の良さは自ずと理解できるのではないでしょうか? そしてその努力は、日本の美意識を理解する助けにもなるように思われます。
日本のアニメ作品を個々の作品についてではなく、包括的に巨視的に見てみましょう。
そうすると、「萌えアニメ」というジャンル自体が、現実社会に対する異議申し立てであり、一つの意思表示であると解釈できそうです。テーマ性は、むしろそこに存在していると言ってよいでしょう。
「萌えアニメ」のよさを最もよく理解している人たちというのが、結局は、恋愛難民の男どもであって、ある萌え系の作品の放送が終了してしまうと、途端に彼らは”難民”になったりするわけですが、萌え系の作品が、そのような特定の層だけに訴求力を持った作品であることは、なるほど否定はできません。
それでも、日本における”恋愛難民の男ども”の人口数というのが、これは過去の記事で詳しく論じましたが、おそらく100万人は余裕で超えているだろうと推定され、「萌えアニメ」は、そうした哀感を伴った安定した需要に支えられているわけです。たぶん。
しかし、「空虚で殺伐とした現実」は、モテない男女に平等に与えられています。
最近のアニメ『おそ松さん』の人気や「サンリオ男子」のデビューなどを見ていると、腐女子向けのコンテンツについても、これからさらに充実していくのではないかと思われます。
ネットフェミニストは、萌えキャラを叩くよりも、腐女子をもっと支援するべきでしょう!
・・・そっちの活動の方が前向きで建設的で生産的です。
さて、ここからが一番聞いてもらいたいところです。
作品をよく「味わう」ことが出来るようになれば、それに伴って知識も自ずと増えてきます。知識が増えれば作品に対する理解が深まります。その反復で得られた体得知は、やがては作品の「意味」を形作るようになります。
日常にありふれた月並みな美、断片的な「よかった」「きれいだった」「感動した」、これらの小さな積み重ねが有機的に連携していくことで、それが作品の「意味内容」となるのです。
ここで、「作品」を「人生」に置き換えてみてください。こういうルートをたどってみても、人間の普遍的な幸福に到達することができそうです。
自意識過剰な人生よりも、美意識過剰な人生の方が、生きていて楽しいと思います。
冬になれば北からカモメがやってきて、春になれば南からツバメがやってきて、そういう些細ことを嬉しがる気持ちがあれば、それでいいんじゃないかと思います。
「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」(松尾芭蕉)
・・・ペンペン草が主役の「小さな美」、さらに言えば「春の訪れ」を発見した時の驚きと喜びの気持ちが十七文字に結晶しています。こういうのも人生の「味わい」なのだと思います。
「日本のよさ」というのは、四季折々の豊かな風物(をかし)と、時に優しく、時には厳しい、そのような自然の風土から育まれた人情(もののあはれ)と、そういったところに求められるのではないでしょうか。
・・・もっとも、こういうのは、日本に限ったことでもなさそうですが。。。
また、先に挙げた俳句や、その他には浮世絵など、日本人の美的センスは、どこか箱庭的で、対象を抽象化して詩化するのが上手なようですね。・・・ここは重要だと思います。
かつて、フランスの思想家ロラン・バルトは、この人は”記号論”で有名だったらしいですが、来日した時に、日本のことを「記号の国」と呼んでは大変に感激したそうです。
「萌えアニメ」の原作には、芳文社の「4コマまんが」作品から出てきたものが結構ありますが、以上を踏まえれば、萌え系の作品が、日本の美的センスをよく反映したものであることが理解できそうです。
クールジャパン、ガンバレヨ(^ω^)
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★【第3章】萌豚くん vs ネットフェミニスト★
唐突ながら、「アルプスの少女ハイジ」の話をします。
原作は1880年の出版で、よい子向けにキリスト教への信仰を説いた内容らしいです。
トルストイが無神論者のインテリゲンチャへの当てつけに『イワンのばか』を書いて出したのは、1885年くらいでした。この頃は「神は死んだ」のニーチェがニヒリズムの到来を予言した時代でもあります。。。
この当時のヨーロッパだからなのか、絵のタッチは写実主義的です。
スイスでもドイツ側なので、印象派美人はなさそうですね(???)
❤スイス/ドイツのオリジナルな頃のハイジ(1880~1930頃)❤
昭和のハイジは、テレビの再放送で見ていました。このアニメは、老若男女問わず親しまれていたような記憶があります。いわゆる「公害」が社会問題になっていた時代の作品という意味で捉えると、日本のアニメ版の持つテーマ性が明瞭になってきそうです。個人的には、都会の生活に馴染めなかったハイジと学校嫌いのペーターに親しみを覚えました(笑)
❤昭和のハイジ(1974年頃)❤
平成のハイジは、これはすべて本の表紙絵ですが、ハイジの例からしても、「かわいい」化が現在進行形の日本。Twitterのトレンドには「サンリオ男子」が上がっていましたwww
❤平成のハイジ(ここ10年くらい)❤
「かわいい」嫌いの日本人が日本を嫌いになる、その理由も分からなくはありません。。。
「かわいい」が正義になると、論理的帰結として「かわいくない」は悪になる。道理として悪になれば叩かれる。悪なのだから叩いてもいい、ということになる。
・・・こう考えると、いわゆる「フェミニストおばさん」たちの、世間の白い、冷たい視線によってうちひしがれた悲痛な叫びが聞こえてきそうです。
さて、今回の記事の冒頭にも触れた「ネットフェミニスト」の話題に戻ります。
「ネットフェミニストが萌えキャラを叩いている」という記事がありました。
「オタク」と「腐女子」を比較してみると、「オタク」の方がより優勢な印象もあります。
しかし、これは男尊女卑などでは決してなく、単に母集団の規模と平均客単価の大きさによるものだと考えられます。お金をたくさん落としてくれる人の方に企業が贔屓(ひいき)するのは当たり前のことです。
平成の長引く不況にもめげずに元気な購買力を持った層が存在する。それが「オタク」だったわけです。投資先を血眼になって探し回っていた企業からすれば、時代がちょうど世紀の節目に当たっていただけに、「オタク」は「世紀末の救世主」に映ったかもしれません(???)
♦世間では豚扱いでも、俺らにとってはケンシロウ(企業談)♦
ゼロ年代には「萌え」がブームになって社会現象にまでなりました。その背景には、まず社会が全体的に疲弊気味で「癒しブーム」というのがあった。それに企業がオタクを持ち上げた、そのように考えられます。
ネットフェミニストは現象面だけに捉われて、その背景にまで頭が回っているのか疑問です。
この人たちは、被害妄想で周りが見えなくなって、単に景気の足を引っ張っているだけのようにしか見えません。一般教養レベルでも、マクロ経済学とかは勉強したんでしょうかね?
受け身な人は不平や不満が多くなります。主体性が未熟な場合は攻撃的・破壊的になります。反抗期というやつです。このプロセスを克服しないと、主体性が生産的・建設的な方向には育たないのではないかと思われます。子供の時に反抗期をちゃんとやらなかった人は、大人になってから反抗期がくるらしいです。
ここ10年くらいの間に「オタク」が社会的に無害なものとして認知されるようになってきたことは、文化的にもよい兆候だと思います。同性愛者や性同一性障害に悩む人たちがもっと自分らしく生きられるような雰囲気が社会に出来上がってきたのも、時期を同じくしているように思います。
世間のオタクに対するイメージの向上によって最も恩恵を受けたのは、実はオタクではなく、潜在的なオタクだったのではないかと思います。生活の場でカミングアウトしやすい雰囲気が社会に出来上がってきた。「自分が自分自身になれる」ことは、抑圧やストレスから解放されるので大事なことです。この章の冒頭に触れたハイジのことを思い出してみてください。
男装女子は、宝塚歌劇団という価値の源泉が存在しているためか、昔から特に珍しいものではなかったと思いますが、近年では鉄ヲタ女子が認知され、女装男子がネタになり、最近はサンリオ男子も話題に上がって、こういったトランスセクシャルでユニセックスな自由な風潮は、男性のアニマ及び女性のアニムスを解放し、男性も女性も分け隔てなくエンカレッジできて、個人的には、文化的に好ましい流れだと思います。
❤紫京院ひびき(♀)とレオナ・ウエスト(♂)❤
しかし、ネットフェミニストは文化的に自由な雰囲気をぶち壊して回る恐れがあります。
ここからは、口調がキツめになります。読んで不快感を覚えそうな方々には、今回の記事は、ここでおしまいです。ありがとうございました(^o^)
それでは、続きです(^o^)
政治思想の右派も左派も極めれば極道で、ただの過激派です。ただの暴力装置です。
ネットフェミニストの正義感は、それと変わるところがないと思います。
男を思いやる気持ちがなくて「女性だけを思いやれ」。そんな虫のいい話を力づくで強引に押し通そうとしているのでしょうか? これは逆差別です。結局、彼女たちは差別推進論者に過ぎません。男女共同参画社会に対する脅威です。これでは男性から嫌われるだけでなく、同性である女性からも嫌われそうです。要は、自由と平和を愛する人たちから見れば、単なる煙たい存在にしか映らないのです。
「自由に対する脅威」には「ファシズム」が挙げられます。記事の冒頭ではナチズムについて少しばかり触れました。
ファシズム潜勢力を持った人間は、当然ながら男性に限らず女性も含まれます。ファシズムを支持しやすい性格は、受動感情、思考停止、弱者のルサンチマン、反内省的な態度、サド=マゾヒズム的性格、権威主義的性格などで構成されます。他者や社会に対して被害妄想を抱きやすい人間の方がファシズムを受容・支持しやすいと言えます。
ネットフェミニストはファシズムに迎合しやすい性格ではないかと思われます。
ネットフェミニストの活動は、「表現の自由」については言うまでもなく、もっと一般化すれば「愛と自由と平和を基調とした社会」に対する脅威です。「愛の祈りを踏み躙る者」です。女性の権利についてとやかく言う前に、基本的人権を尊重してほしいものです。。。
社会は、老若男女の全ての構成員が、お互いに持ちつ持たれつして回ってるんだから、ネットフェミニストの人たちは、萌豚どもをディスカレッジするような活動は慎んで、腐女子たちをエンカレッジするような活動に精進しなさい!・・・以上です。