【読書感想文】ヘルマン・ヘッセの『デミアン』(第3章)について語る回

皆さん、こんにちは。

今回のネタも小説『デミアン』の講読です(^o^)

この小説の主人公であるシンクレールは、太宰治の『人間失格』の主人公である葉蔵ちゃんくらいに親しみの湧くキャラで、個人的に気に入りましたwww

また、この小説の主題となっている「自己の探求」は、視野を広げれば「人生の意味や価値」の探求となるわけで、自分の無能に負けてしまわなければ、形はどうであれ、行き着くところは「価値の創造」を志向する者への進化ではないかと、そのようなことを考えました。

それを思うに、人生を哲学することは「端的に」よいことだと思います。
うーん、人生はレトリック(意味不明)

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では、講読に入りましょう。

この小説は、全体が第8章までの構成で、日本語訳の字数を400字詰め原稿用紙に換算すれば、350枚~400枚くらいになる長編小説手前くらいの中編小説です。

第3章以降は、ストーリーの緻密さという点については、どう見ても場当たり的としか思えないような展開があったり、何やら難ありな感がありますが、シンクレールがデミアンやその他の登場人物と交わす宗教・哲学談義については、これからだんだんと面白くなっていくように思います。

【第3章 罪人】

第3章の冒頭では、早速このような断り書きが出てきます。
そういうわけで、僕も本文から自分の関心となった部分だけについて語ります(言い訳)

しかし私にとっては、自分自身に達するために自分が一生のあいだになした歩みだけが興味をひくものである。

それで、私の少年時代にとどまるかぎり、私は、自分の出くわした新しいこと、私を前へ駆りたて引っ立てて行ったものについてだけ、話をする。

この衝撃はいつも「別な世界」からやって来、いつも不安と強制とやましい良心とを伴い、いつも革命的で、私が自分の住み家としたいと思っていた平和を危うくした。

この頃のシンクレールは思春期に入った頃で、童貞臭を漂わせてはエゴイズムやスノビズムのドロドロモヤモヤした感情に支配されるくらいの年齢になったのでしょう。

これは、人生において誰もが通る道なのでしょう。僕も通りました。。。

重要なのは、「暗い世界」、「別な世界」がふたたび現れた、ということであった。かつてフランツ・クローマーだったものが、いまは私自身の中にあった。それによって外部からも「別な世界」がふたたび私を支配するようになった。

シンクレールが栗畑な少年くらいになった一方、デミアンは相変わらず、孤高で気高い変人の威光を普通に輝かせていたので、学校の生徒からも先生からも好かれることはなく、周囲からはやはり浮いた存在でした。凡人シンクレールもそんなデミアンを避けていました。

この頃のシンクレールはデミアンとは疎遠な関係になっていました。しかし、彼は学校で行われる宗教の授業に退屈を感じるようになると、彼は自分がデミアンを求めているのを感じるのでした。

この話の舞台となっているラテン語学校というのは、今の日本で言えばミッション系の進学校みたいなものなのでしょう。卒業後は高等中学校(ギムナジウム)に進学するようです。

「堅信礼」というキリスト教の儀式があって、この学校ではその準備のための授業が行われるようですが、その授業をきっかけに、シンクレールはデミアンと再び接近します。

宗教の授業の時間に、ある日から、デミアンはシンクレールの隣の席になりました。
これはデミアンが意図して、そのような状態に持って行ったようです。

デミアンはシンクレールに「意志の力と実現可能性」について語ります。

「……つまり人は自由な意志を持ってはいないんだ。牧師さんはそれを持ってるようにふるまってはいるけれど。ほかの人も自分の欲することを考えることはできない。ぼくにもぼくの欲することをほかの人に考えさせることはできない。しかし、だれかをよく観察することはできる。

そうすると、その人が考えていることや感じていることを、かなり精確に言えることは珍しくない。
そうすると、その人がつぎの瞬間になにをするだろうかということも、たいていあらかじめわかる。
それはごく簡単なことだ。みんなが知らないだけだ。むろんそれには練習がいる。

たとえば、チョウ類の中のある蛾に、雄より雌がずっと少ないのがある。チョウ類は動物と同じようにして繁殖する。つまり雄が雌をはらませ、雌が卵を産む。

さてきみがこの蛾の雌を一匹持っているとすると――自然科学者によってたびたび実験されたことだが――夜その雌のところに雄が飛んで来る。しかも数時間もかかるところを! 数時間もかかるところだよ、きみ! 幾キロも離れていても雄はみんな、その辺にいるただ一匹の雌をかぎつける! 

その説明が試みられているが、それは困難だ。一種の嗅覚か、あるいはなにかそんなものにちがいない。よい猟犬が目につかない足跡を見つけて追及することができるようなものだ。わかるかい?

そうしたことなんだが、そういうことは自然界にはいっぱいある。そしてそれはだれにも説明できない。だが、ところでね、その蛾にしても、雌が雄と同じようにひんぱんにいたら、鋭敏な鼻を持ちはしないだろう。そういう鼻を持ってるのは、訓練したからにほかならないんだ。

動物、あるいは人間も、彼の全注意と全意志をある一定の物事に向けるとすると、同じようになれるんだ。それだけのことだ。

途中でシンクレールが質問を挟んだりしますが、それを受けながらデミアンは話を続けます。

たとえば、さっきのような蛾がその意志を星かあるいはそのほかのどこかに向けようと欲したとすると、そんなことはできないだろう。

ただ――蛾はそんなことはまったく試みはしない。蛾はただ、自分にとって意味と価値のあること、
自分にとって必要なこと、絶対に手に入れねばならないことを、求めるだけだ。
そういう場合にこそ、信じられないようなこともうまくいくのだ――蛾は、ほかのどんな動物も持たない、不可思議な第六感を発揮する!

われわれ人間はたしかにいっそう多くの活動の余地を持っている。動物よりも多くの興味を持っている。しかしわれわれだってかなり狭い範囲に束縛されていて、それを越えて出ることはできない。

ぼくはなるほどしかじかのことを空想することはできる。自分はどうしても北極に行きたいんだ、というようなことを頭に描くことはできる。しかし、実行したり、十分に強く欲したりすることのできるのは、その願いが完全にぼく自身のうちにある場合、実際にぼくというものが完全にその願いに満たされている場合に限るのだ。

そういう場合になってきて、きみが自分の内から命令されることを試みる段取りになれば、きみは自分の意志をよい馬のように駆使することができる。


「…その願いが完全にぼく自身のうちにある場合、実際にぼくというものが完全にその願いに満たされている場合…」
つまりそれは・・・

      ❤ファイトだよっ!❤           ❤叶え!みんなの夢!!❤

アニメ「ラブライブ!」の作品世界全体を貫くテーマは「内面的な飛躍・超越を遂行することによって自分が自分自身になる」みたいな感じでしたよね。

ヤスパースも「人間であることは、人間となることです。」と言っていました。

       ❤アニメ1期のエピソードで能力開発されたメンバーのみなさん❤

      ❤海未ちゃん❤               ❤ぱなよ❤


       ❤エリーチカ❤               ❤まきちゃん❤ 

 ❤「アイドル道」の信仰が内面化されて最初から最後までブレなかった(!?)にこちゃん❤
 
そういえば、以前にどこかの記事で、穂乃果は「内部指向型パーソナリティ」の優勢なキャラクターだと言ったことがありました。

内部指向型」の対概念は「他人指向型」だと、そういうことも言いました。

アニメ「ラブライブ!」で「他人指向型パーソナリティ」が顕著に現れているキャラクターといえば、ことりちゃんが該当するかもしれませんね。

具体的には、例えばアニメ1期の終盤で、合宿を経てメンバーの結束力もそろそろ盤石となってきたところで、学園理事長である親鳥のコネでことりちゃんにフランス留学の話が舞い込んできます。ことりちゃんはメンバーのことを気にかけて、そこで葛藤するのでした。
このあたりに「他人指向型パーソナリティ」の優勢さがうかがえますね(!?)

ちなみに、イヤミさんなんかは渡仏が人生最大の悲願だったりするので、そこで迷うことなどは有り得ないのでしょうが、しかし、ことりちゃんは、そこで迷ってしまいます。

前回の記事では、「自分を自分自身に導く道を行くより、心にさからうものはない」という、大人になったシンクレールの言葉がありましたが、ことりちゃんの、ここでの葛藤も、それに似通ったものがあるように思いました。
1期のこのへんのエピソードは、ファンにはあまり評判がかんばしくない感じもありますが、「自己に至る道」や「自分が本当にやりたいこと」などについて理解を深めるには、実は良いテキストになるのかもしれません。

年明けからアニメ「ラブライブ!」1期がEテレで再放送されますね。よかったですね!

2期では、地味で目立たない裏方の仕事について、にこちゃんが心無い発言をしたのに対し、ことりちゃんが、そのような仕事に従事するメンバーの位置付けや意義についてドヤ顔で答えるシーンがありました。このあたりも「他人指向型」らしい性格がよく出ていたと思います。

このシーンでは、にこちゃんは「イヤな女」になっていますが、天使と小悪魔の両方の属性を兼備しているにこちゃんなので、そのキャラ属性に助けられて自然な流れも可能だという
・・・この場面は、そのように見ることもできるでしょう(?!)

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宗教の授業のことで、シンクレールとデミアンが宗教談義に興ずるくだりがあります。
デミアンキリスト教の教義を批判しています。ここはニーチェっぽいです。

「言い古された話さ、むきにならないでくれたまえ! でもきみに言っておきたいことがあるよ

――つまり、ここにこの宗教の欠陥をきわめて明らかに見うる点の一つがあるんだ。
旧約と新約の、この神全体は、なるほどりっぱなものではあるけれど、それが本来あらわすべきところのものではないということが、問題なのだ。
その神はよいもの、気高いもの、父らしいもの、美しいものであり、高いもの、多感なものでもある。――まったくそれで結構だ。

しかし世界はほかのものからも成り立っている。そして、それはむぞうさに悪魔のものに帰せられている。世界のこの部分全体、この半分全体が、ごまかされ、黙殺されている。

彼らは神をいっさいの生命の父とたたえながら、生命の基である性生活というものをすべてどんなにむぞうさに黙殺し、あるいは悪魔のしわざだとか、罪深いことだとか、説明していることだろう! 
あのイェホヴァの神をあがめることにぼくは少しも、露ほども異議はない。


だが、この人工的に引き離された、公認された半分だけでなく、全世界を、いっさいをあがめ重んじるべきだ、とぼくは思うんだ。

そこでつまり、神の礼拝とならんで悪魔の礼拝を行わねばならない。それが正しいだろうと思うんだ。あるいはまた、悪魔をも包含している神を創造しなければならないだろう。それに対して人は目を閉じてはならない。この世界の最も自然なことが起きるのだとすれば

彼はいつもの調子とはちがって、ほとんど激していた。しかし、すぐあとで彼は微笑して、それ以上私に迫らなかった。

キリスト教道徳を批判するデミアンの調子は「ほとんど激していた」ということです。
・・・ニーチェが背後霊となって彼に降臨してきたんでしょうwww

ここの文章は、もしかすると過激で危険な思想に解釈されかねないようにも思われます。

ところで、『歎異抄』という浄土系仏教の聖典には「悪人正機説」という思想があって、これは「善人さえも救済されるのだから、悪人はなおさら救済される」みたいな内容で、解釈次第では悪人が居直る口実にもなり得ます。

この書には、最後の方に「この奥義は仏縁のない人には決して見せないでください」みたいな但し書きがあるのですが、上に掲げたデミアンの発言も、こういったことに留意しながら読まれるべきなのでしょう。

デミアンは、シンクレールなら自分の話を曲解するようなマネはしないだろう、と彼を信用したうえで話したのかもしれません。

もっとも、デミアンの言う「神」「悪魔」とは、ギリシャ神話の神々で言えばアポロン(秩序)とディオニュソス(混沌)、フロイト精神分析学で言えばイド(自我)とエス(無意識)、そのような対応関係にあることが想像できるでしょう。

さて、この段のデミアンの主張を、前段の最後の場面との関係で捉え直せば、それはつまり、
公認されたにこちゃんだけでなく、全にこちゃんを、いっさいのにこちゃんをあがめ重んじるべきだ、とぼくは思うんだ。」・・・つまり、そういうことなんでしょう

        ❤おどにこ❤               ❤ムスにこ❤

           ❤デレにこ❤

        
        ❤待ちにこ❤               ❤春にこ❤

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デミアンの発言を受けて、シンクレールも考えます。

デミアンがさっき神と悪魔、公認された神の世界と黙殺された悪魔の世界とについて言ったことは、まったく私自身の考え、私自身の神話、すなわち――明暗、二つの世界、あるいは二つの半球の考えそのままだった。

自分の問題はすべての人間の問題であり、すべての生活と思索の問題だという悟りが、神聖な影のように突然私の上をかすめ過ぎた。

まったく自分独特の個人的な生活と思考とがどんなに深く偉大な思想の永遠の流れに関係していたかを知り、また突然そう感得したとき、私は不安と畏怖に襲われた。


その悟りは、なにか確証と幸福感を与えるようであったが、楽しいものではなかった。

それは、責任の声と、もう子どもではいられない、ひとり立ちになるのだという声とを宿していたので、きびしく、荒い味がした。

ここの引用は「自分を自分自身に導く道を行くより、心にさからうものはない」という言葉が再び想起させられそうな記述です。

「自分が自分自身になる」は、一般化すれば「人間であることは、人間となることである。」
・・・ということですね。

ここは、シンクレールが「普遍性」について、彼なりにアハ体験をしたような内容ですが、
それは「不安と畏怖に襲われた」「なにか確証と幸福感を与えるようであったが、楽しいものではなかった」「きびしく、荒い味がした」ということです。

自分なりに何らかの真理に到達した瞬間というのは、ひねくれて思考停止してしまったような場合でなくても、たとえ肯定的で前向きな真理に到達して悦ばしき知識を会得したとしても、何やら気の重たくなるような心境になり得ることもあるという・・・とりあえず、ここでは、そのようなことを考えました。

子どもと大人の違いは「責任の重さ」の違いだと、そういう話を聞いたことがあります。
実際、現実社会には、大人びた子どももいれば、子どもじみた大人もいるものです。。。

デミアンは、凡人と変人の間を未ださまよっている状態にあるシンクレールに語ります。

「きみは人に言いうる以上に考えているよ。さて、そうだとすると、きみはきみの考えたとおりに生きてこなかったことがわかる。それはよくない。生活されるような思索だけが価値を持つのだ。

きみの『許された世界』は世界の半分にすぎないということを、きみは知った。
きみは、牧師さんや先生がやるように、第二の半分をごまかそうと試みた。そうはいかないだろう! いやしくも思索を始めた以上、それはうまくいきはしない」


きみはたしかに殺害したり、少女をもてあそんで殺したりしてはならない。断じて。

しかし『許されている』とか『禁じられている』とかいうことが実際どういうことなのか、悟るところまで、きみはまだいたっていないのだ。

(中略)

だから、われわれはめいめい、許されていることと、禁じられていること――めいめいに禁じられていることを見つけなければならない。

禁じられたことをまったくなしえないで、しかも大悪人になるということはありうる。その逆も同様に言える。――実際それは気楽さの問題にすぎない!

自分で考え、みずから裁き手になるには気楽すぎる人は、しきたりになっている禁制に順応する。そのほうがらくなのだ。

他方また、自己の中におきてを感じている人もある。その人たちにとっては、れっきとした人がみな日常やっていることが禁じられているのだ。そして、ほかの人には厳禁されていることが、彼らには許されている。めいめい自分で責任を持たなければならないのだ。

世間の価値観や多数決の原理を鵜呑みにして、それを絶対的な基準にして正義を振りかざしているような人たちは「力こそ正義」「物量こそ正義」の思考停止な思想に陥りがちで、しかもそういう人たちは、結果的に大悪人の仲間になりやすかったりするので、上に引用した記述を銘記しておくべきでしょう。

一方、「自分が自分自身になる」「自己に至る道」を志す人たちにとっては、ここに引用した記述は、是非とも押さえておかなければならない重要ポイントでしょう。でないと、破滅してしまいます。。。

このあたりから、シンクレールは先達であるデミアンの後を追うようにして、変人(カッコよく言えば「自主的な少数者」)の道を究めていくようになります。

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とりあえず、第3章についてはこれで終わりです。

第4章は、ユングの心理学と精神療法が関連してきそうな話です。

それでは、皆さん、ごきげんよう! Let's be myself!