【読書感想文】ヘルマン・ヘッセの『デミアン』について語る回

皆さん、こんにちわ(^o^)
晩秋の候、お元気にされていますか

少し前に、このような動画をタイトルに釣られて視聴しました。

この動画は、オチが何やら差別的な表現で締めくくっていたようで、それについては感心しませんでしたが、それはともかく、率直な感想としては「犯人は、何とも情けないおっさんだよなあ」と思いました。

さて、この動画の広告欄に、このような商品が貼られていました。
               
                デミアン(新潮文庫)

「なんでこんなところにこんなもんが貼られてるんだ? 引きこもりニートの純文学作品?」といった具合に興味をひかれてクリックして内容を見ていると、自分の好きな表現を用いれば、これに何やら「超越者の暗号」を感じたので、早速購入しました。

予め断っておきますと、僕の感想は、多分に個人的な色メガネを通した「趣味の世界」なものに脱線してしまう傾向にあるので、この本のオーソドックスで信頼のおける書評については、こちらの記事が参考になるでしょう。

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』【文学どうでしょう】

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それでは、僕の感想を語ります(^o^)

小説『デミアン』はドイツの文学作品で1919年に発表されました。作者のヘルマン・ヘッセは、第一次世界大戦に衝撃を受けて、それが執筆の動機になったようです。

人々の関心に留まろうが留まるまいが、どんなにパッとしない人生であるにせよ、人にはその人にしかない人生があって、その人ならではの独自の物語があって、それは誰にとっても交換不能なかけがえのないものです(断定)。

仏教に「天上天下唯我独尊」という言葉があります。
「オレ様がこの世で最も尊い」みたいな解釈をする人たちがいます。これは利己主義です。「お互いにそれぞれがかけがえのない存在」という解釈もあります。これは個人主義です。

個人の唯一性と人生の一回性の、これらのユニークさは万人が万人に対して大いに尊重されるべきだと思います。

一度きりの試みであるような人生が、かけがえのない独自の物語が、戦争の犠牲となってあっけなく終わってしまう。これは悲しいことです。

デミアン』は、作品中の随所にニーチェの思想とユング心理学の影響が見て取れます。
テーマは、一言で表せば「自己の探求」です。自己分析とメタ認知の記述が多めです。

執筆の動機を記したと思われる冒頭のはしがきは、このような文章で締めくくられています。

われわれすべてのものの出所、すなわち母は共通である。われわれはみんな同じ深淵から出ているのだ。しかし、みんな、その深みからの一つの試みとして一投として、自己の目標に向かって努力している。われわれはたがいに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない。

ところで、当時のヨーロッパの時代精神については、かなり大まかではありますが、こういう見方ができるだろうと思います。

   「神は死んだ」(ニーチェ)=伝統的なキリスト教的価値観の相対化
                 ↓
             大衆社会の出現(混沌)
                 ↓
             実存哲学の発展(秩序)

デミアン』の物語の枠組みは、この構図に結構当てはまっているように思います。

20世紀に盛んに議論された大衆社会論や実存哲学などのジャンルは、現代ではすっかり過去の産物となった感が否めませんが、しかし昨今の現実世界を実際に見回してみると、その意義はまったく色褪せてはいないと思うことがよくあります。。。

そういうわけで、『デミアン』は今読んでも面白いです。否、混沌を極める今の時代だからこそオススメです!

特に、世間とは距離を置いてオルタナティブな人生を送るような羽目になった、ある意味で人一倍に勇敢さを必要とする人たちには、何かと示唆に富んだ内容で、読んでいて胸のすくような思いのする作品ではないかと思います。

ただし、解釈次第では過激な思想にもなりかねないような記述なので、誤読には要注意です。

ああ、世間の対立と無理解と軋轢から生じたモヤモヤが少しはましになったぜ⊂(^ω^)⊃


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これからは、作品の本文から、われわれオルタナティブにとって意義深そうな箇所を抜粋して、それぞれ咀嚼(そしゃく)しながら味わっていきましょう。

テキストは新潮文庫版の『デミアン』です。
引用文にある太文字や色文字は、僕の判断で入れたものです。あしからず。

先に言っておきますが、今回の記事はかなり長いです。最後まで読んでいただいた方はお疲れ様です。着地おめでとうございます(*´ω`*)

来月はクリスマスですね。ぼっちで過ごすクリスマスは楽しいものではないですね。
ぼっちのクリスマスに怯える同志諸賢は、ここで理論武装して免疫をつけておきましょう。


【第1章】二つの世界

この物語の主人公シンクレールは、この章では、まだ10歳になるかならないかの少年です。
彼は小さな町に住みラテン語学校に通っています。両親は敬虔なキリスト教徒で、彼は信仰心の篤い裕福な家庭に育っています。要は、私学の小学校に通う上流階級のお坊ちゃんです。

この頃の彼には「明るく正しい世界(キリストの教えに則った清浄な家庭)」と、それとは別の「暗い世界(不正や事件の横行する混沌の巷)」という二つの世界の認識がありました。幼い彼にもこのような世界観があった、そのように理解しておきます。

シンクレールは、一般の小学校に通う児童とも交友関係がありました。

ある日の出来事がきっかけで、それまで「明るい世界」に属していた彼は、「暗い世界」からの支配に隷従する羽目になります。

ある日、シンクレールが一般の小学校の児童二人とつるんで町をぶらぶらしていたら、フランツ・クローマーという不良少年が彼らのグループに加わりました。もっとも、彼らのグループがクローマーに捕まってしまったと言った方が実情でしょう。クローマーは彼らよりも年長で一般の小学校に通う上級生でした。

クローマーがリーダー格となって一緒に遊んでいるうちに、それぞれの武勇伝や悪事を語り合う回みたいな流れになりました。シンクレールは彼らに話せるようなネタを持ち合わせてはいません。そこで苦し紛れの作り話をして彼らの前で騙ったところ、それが裏目に出てクローマーに弱みを握られた形になってしまいます。

この日を境に、シンクレールはクローマーから奴隷のような扱いを受けることになりました。いじめの対象にされてしまったのです。またこの隷従の苦しみを、運命に対する彼ならではの思い込みによって一人で抱え込んでしまったために、そのことによって彼は精神的に追い詰められていきます。

まだ反抗期には至ってないくらいの年齢の従順なシンクレールにとっては、クローマーとの件については、厳格なキリスト教の道徳教育が、かえって仇(あだ)となったと言えるかも知れません。


【第2章】カイン

シンクレールがフランツ・クローマーによるいじめの屈辱に遭うこと数週間が経過した頃、ラテン語学校にマックス・デミアンという少年が転校してきました。歳はフランツ・クローマーと同じくらいのようです。デミアンは周りの生徒と比べると風貌も物腰もかなり大人びていて、そのためか転校早々にして学級からは浮いた存在となってしまいました。

ある日、授業の教室が同じになったことをきっかけにシンクレールはデミアンとやや親しい関係になります。デミアンは聖書にあるアベルとカインの話について正統ではない独特な解釈をして、それをシンクレールに聞かせて彼を驚かせます。

クローマーからのいじめは相変わらず続いていました。シンクレールの様子からデミアンはその状況を察します。しかし、デミアンという人物にまだ信頼を置けるまでには至っていない不安もあって、シンクレールの方からはなかなかクローマーのことを話すことができませ9



第4章の途中まで書いてたんだけど。。。ここから先は、何かの誤作動で消えちゃったのね。これまでの努力が。。。あびゃー