【ラブライブ!】【がっこうぐらし!】「Wonder zone」と「超越者の暗号」について語る回(分割版その3)


           みなさん、こんにちわ。うーさーですw(嘘)



8月の終わりにこんな記事を投稿しました。

【ラブライブ!】【がっこうぐらし!】
「純粋経験」と「Wonder zone」と「超越者の暗号」について語る回


この記事の内容の半分以上は、どこかの記事の引用だったりするわけですが、そのためか全文が長すぎになってしまったので、分割して加筆・訂正なども行って、次のような記事を投稿しました。

【ラブライブぐらし!】「純粋経験」について語る回(分割版その1)

【ラブライブ!】「Wonder zone」と「純粋経験」について語る回(分割版その2)


今回は、上記の記事の第3回目です。

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テレビアニメは、そろそろ秋季のクールに突入したところですが、今季のアニメについては、原作を読んで、ほのぼのとしたラブコメディに「お、これ、なかなかいい味出してんな❤」と思った『温泉幼精ハコネちゃん』に期待しないで楽しみにしてます♨

今年の夏季クールのアニメについては、『がっこうぐらし!』が「めぐねえ」のキャラに惹かれて、印象に残りました。

                ❤ファンサービス!?❤

「めぐねえ」には何か感じるものがあって、「めぐねえトリビュート」な動画も即興で作ったりもしました。個人的には感動モノの涙モノの出来栄えですが(投稿者自身から言うか?)、いまいち評判は芳しくありません。興味のある方はどうぞ(^^;


ところで、『がっこうぐらし!』のバイオハザードな作品世界を見ていて思いました。
「人間から人格や精神性を取り除いてしまったらゾンビ君みたいになってしまうのかな?」

両者の対比としても、或いは「唯心論的世界観 vs 唯物論的世界観」みたいな構図を思わせる「めぐねえ」のキャラは、やはり魅力的でした。

     唯心論的世界観(形相?)          唯物論的世界観(質量?)

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このへんで、「ラブライブ!」の話に移りましょう。

ラブライブ!」というコンテンツのコアコンピタンス(競争優位の源泉となる”強み”)は、個人的には”楽曲の良さ”にあるのではないかと考えるわけですが、殊に「Music S.T.A.R.T!!」の歌詞は、宗教の文脈に置き換えると、コンテンツに内在する宗教性を示唆するものとして捉えられるかも知れません(?!)

もしかして、この曲は、いわば「法悦」の歌!?・・・μ’s-Music S.T.A.R.T!!【歌詞タイム】

   「法悦」のことで言うと、「Wonder zone」も、その類の曲かも知れない(!?)


さて、そろそろ前回(分割版その2)の続きに入りましょう。


・・・それまで全く気にもかけなかった「Wonder zone」が突如として興味の対象となったので、後日になってから歌詞の内容をインスペクト(精査)してみました。

作詞の畑亜貴さん(自称11人)は、大変によい仕事をしましたね♪

Wonder zone
キミに呼ばれたよ 走ってきたよ
きっと不思議な夢がはじまる

Hi!はじまるよ(Wonder feeling)
不思議だよ 特別な夢さ(Wonder feeling)

元気あげたいな 明日もHappy
いっぱい楽しんで ときめきたいよ

元気出し過ぎて 転んだあとも
さっと起き上がり 笑顔でしょ!

どんなに つらいコトがあっても
泣かずにがんばらなきゃ輝けないね!

Wonder zone
強い私へとなれるミライ
いっしょに見つけよう I'm OK!
キミにつよく呼ばれたよ 走ってきたよ
きっと大きな夢がはじまる

Hi!はじまるよ(Wonder feeling)
不思議だよ 特別な夢さ(Wonder feeling)

勇気忘れずに 進めばLucky
みんな出会えるよ しあわせになれ

勇気消えそうで 不安なときは
うんと背伸びして 前向いて!

なんども確かめたくなるよ
となりにいてくれるキミに合図!

Wonder sign
熱い喜びをまねくミライ
いっしょに感じたい You're my friend
キミとあつく動きだそう 急いできてよ
ぐっと大きな夢をはじめよう

Wonder zone
強い私へとなれるミライ
いっしょに見つけよう I'm OK!
キミにつよく呼ばれたよ 走ってきたよ
きっと大きな夢がはじまる

Hi!はじめるよ(Wonder feeling)
不思議だよ 最高の夢さ
(Wonder feeling)


(※緑の文字の箇所が、そのいわゆる純粋経験ゾーン)→(分割版その2)の記事を参照


これは一見したところ、私たち聴き手にとって、メッセージ性の強い「元気応援ソング」です。

Wonder zone」は「アキバ」のことで、たしかに「きっと不思議な夢がはじまる」
・・・そうなんでしょう。

「辛い現実に耐えて、お金を落とした分だけ、ここはワンダーゾーン♪」
・・・最初はそのように思われました。

それはさておき、もう少し穿(うが)った見方をすると、これは、友情や仲間たちとの一致団結を謳歌した形で、労働生産性向上運動の志気を高めるための労働歌だと、次はそのように思われました。

組織における「インフォーマル集団」の存在が、従業員たちの志気を高め、作業の能率の向上に寄与することは、経営学の分野においても周知のとおりです。

また、この歌は、実存哲学的な解釈も可能だと思われます。このことについて、さらに章を変えて検証していきましょう。


労働者の娘”ミナリンスキー”の姿に身をやつして和光同塵の修行に精進される南ことりさん(16)





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ここでは、ヤスパースの実存哲学の「さわり」みたいなものを記述した記事を参考にしながら、さらに考察を進めていきましょう。

ちなみに「実存」とは「本質存在」に対する「現実存在」の略で、本質存在(イデア)と対比されつつも「現存在」政治学社会学などの分野で説明されているような”大衆”)とも区別される「現存在から覚醒して、自由な決断に基づいて主体的に生きる人間」な感じですか。
個人主義の理想的な形だと思います。・・・あくまでも自分なりの解釈ではありますが。。。

これらの諸概念を「がっこうぐらし!」の世界に無理矢理に当てはめてみると、
 
                「本質存在」→めぐねえ
               「現存在」→ゾンビ君たち

              「実存」→ゆきちゃん御一行様 
                      ・・・みたいな?!

このことをさらに強引に例えるならば、「がっこうぐらし!」という作品は、「日本が過去の時代から未だに克服できていない”大衆社会状況”のカリカチュア」だと、そういう解釈も可能かも知れません。

また、作品世界を「全体主義社会の中にいる自由主義者」になぞらえてみると、これはもっと妥当性があると言えるかも知れません。

しかしまあ、それまで”よき隣人”や”よき友人”であった人たちが、じわじわとゾンビになっていってしまうのは、実際にそんなことがあったらイヤですねえ。。。

「実存」の用語の解説がまた長いので、詳細に興味のある方はこちらをどうぞ→ 実存哲学


以下は、ヤスパースの実存哲学についての解説です。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ヤスパース
やすぱーす
Karl Jaspers
(1883―1969)

主著『哲学』は、ヤスパースの実存思想の全体を伝える大著であるが、それによると哲学の課題は、存在意識を変革しつつ世界から超越者へと超越していくことにある。

すなわち第一巻『哲学的世界定位』では、世界知についての反省の結果、「世界がすべてであり、科学的認識が確実性のすべてである」とする世界内在的な態度が放棄され、存在意識変革の第一歩が踏み出される。ついで第二巻『実存照明』では、世界存在に解消されない人間の実存が内部から照らし出され、それがけっして自足した存在ではないことが示される。

つまり実存は、死、悩み、争い、罪といった、人間が免れることのできない「限界状況」に面して自らの有限性に絶望するが、しかしそれと同時に実存は超越者が主宰する真の現実へと目を向け、存在意識を変革しつつ、本来の自己存在へと回生する。

第三巻『形而上(けいじじょう)学』では、超越者が実存に対して自らをどのような形で開示するかが問われ、超越の最終段階である「暗号解読」に到達する。ここではすべてが超越者の暗号となり実存はこれらの暗号の解読という形で超越者の現実を確認するのである。

『哲学』以後、ヤスパースは実存とともに理性を重視し、実存からの哲学はまた理性による哲学であるべきだとするが、第二の主著『真理について』は、理性の側に力点を置き、存在そのものを包括者としてとらえ、その諸様態を解明したものである。

こうしたヤスパースの哲学は、全体として、個人の尊厳を重んじるヒューマニズムに支えられており、
彼はこの立場からまた歴史や政治や宗教の問題についても積極的に発言した。この方面の著作には『歴史の起源と目標』(1949)、『原子爆弾と人間の未来』(1958)などがある。
                                   [宇都宮芳明]
                          『『ヤスパース選集』(理想社)』


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それでは、「Wonder zone」の歌詞について、上に引用した記事を参考にしながら、内容を見ていきましょう。

Wonder zone キミに呼ばれたよ 走ってきたよ きっと不思議な夢がはじまる」
・・・ここでいう「キミ」とは誰なのでしょう?
そうですね。これは「歌を聴く側」のこと、すなわち「私たち」のことですよね(確信)

で、これはμ’sの歌で、μ’sのメンバー各位におかれましては、それぞれの今後のさらなるご活躍とご健勝を祈願したく存じ上げます。

ただし、μ’s自体については、近い将来には、私たちにとっての「超越者」のステータスを獲得することになるのだろうと、ニワカで薄情なファンの一人ではありますが、そのような心積もりでいます。

浄土系の仏教では、「南無阿弥陀仏」という念仏は「阿弥陀如来に帰依します」という意味であると同時に、阿弥陀如来の方から「キミに呼ばれたよ 走ってきたよ」、そういう意味でもあるらしいですね。・・・って、じーちゃんが言ってたずら(ずら丸)

曲の中で、規則的に出現してくる感じの「ピャァー」みたいな効果音は、あれは、超越者なイメージがあるように思います。

「どんなに つらいコトがあっても 泣かずにがんばらなきゃ輝けないね!」
・・・一見、やさしい言葉で片付けていますが、ここは、上に引用した記事にあった、実に重いことを語っている、この箇所に該当するでしょう。

「つまり実存は、死、悩み、争い、罪といった、人間が免れることのできない「限界状況」に面して自らの有限性に絶望するが、しかしそれと同時に実存は超越者が主宰する真の現実へと目を向け、存在意識を変革しつつ、本来の自己存在へと回生する。」

ここは、「ゆきビジョン」と「めぐねえ」の真相に関わってくることかも知れませんね!

Wonder zone 強い私へとなれるミライ いっしょに見つけよう I'm OK!
        キミにつよく呼ばれたよ 走ってきたよ きっと大きな夢がはじまる」
・・・強い私へとなれるミライ」、これは「聴く側」である「私たち」の宣言部と捉えてよいでしょう。それに対して超越者が「いっしょに見つけよう I'm OK!」と呼応しているわけです。

「なんども確かめたくなるよ となりにいてくれるキミに合図!」
・・・これは最初は、コンテンツ側からユーザーに対して「課金継続の合図」を求めているものとばかり解釈していましたが、そんな浅はかな自分が恥ずかしいです。。。
恥の多い生涯を送って来ました。。。

ここのくだりは、次の段と続けて解釈するべきでしょう。

「Wonder sign 熱い喜びをまねくミライ いっしょに感じたい You're my friend
        キミとあつく動きだそう 急いできてよ ぐっと大きな夢をはじめよう」
・・・「Wonder sign」、これが、もはや「超越者の暗号」を示唆していることは、ここでのこれまでの経緯を振り返ってみれば、尚更に闡明(せんめい)となったことでしょう。

・・・「キミとあつく動きだそう 急いできてよ」、これはつまり、超越者の側から私たちに「暗号の解読」を求めているわけです。そのことによって「ぐっと大きな夢をはじめよう」と、何やら「心地のよい強引さ」のようなものを以って、私たちに啓示を与えているのです。

Wonder zone 強い私へとなれるミライ」
「いっしょに見つけよう I'm OK!」


「Hi!はじめるよ(Wonder feeling) 
不思議だよ 最高の夢さ(Wonder feeling)」

つまり、この歌は、超越者の暗号による啓示実存哲学的飛躍の契機を促すための
μ’s(女神)から私たちに対する贈り物だったわけです。たぶん。

私たちは、この「Wonder zone」という曲を、いわば「超越者の暗号」の形式によって贈与されたものとして受け取ることにより、また、その「暗号を解読」する行為によって、私たちは、「超越者の存在」を確認することが出来るのであります。

                     「ね、めぐねえ♪」(ゆき)


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【参考】カール・ヤスパース(1883―1969)について
白取春彦『この一冊で「哲学」がわかる!』より引用)

ドイツのオルデンブルクに生まれる。ハイデルベルク大学精神病理学と心理学を講義し、やがて哲学教授に転じるが、ナチスによって教壇から追われる。戦後はスイスのバーゼル大学で教授を務める。ヤスパースプロテスタントであったが、カトリックの影響を多く受けている。


主な著書に『哲学』『世界観の心理学』『現代の精神的状況』など多数。    
        

ハイデッガーナチスに「加担」したが、ヤスパースナチスに対しては鈍感だった。鈍感だったから無思慮に加担したのではなく、彼はドイツ国民を信用していたし、ナチスは一過性の嵐のようなものであると看過していたのだ。

やがて1935年春までに、ナチスはほぼ全大学に浸透し、多くの学者が解雇されていった。そして、ナチスの手はヤスパースにも迫り、1937年夏にハイデルベルク大学の教授職を罷免されることになる。理由は妻がユダヤ人だったからである。

その頃、時世に敏感な学者や芸術家らはとっくにアメリカなどに亡命していた。ヤスパースは対処が遅かったのである。ヤスパース夫妻を救おうと各国から招聘(しょうへい)の努力が行なわれるが、どれもうまくいかない。

(中略)

ナチスから非国民とハンコを押されることは、確実な死の脅威にさらされることだった。しかし、ヤスパースは妻と離婚すれば、この脅威から逃れられるのである。同様のことは、ヤスパース夫妻だけでなく、当時の多くのドイツ人夫妻にも起こっていた。

この頃の逼迫(ひっぱく)した状況でのヤスパースの日記は痛ましく、かつ彼の品性の高さに満ちている。

恐怖に震えながら自殺を考え、内なる声を待ち望み、なお哲学的真理に触れることを望んでいるのである。そして、枕許には青酸カリが置いてあった。

世界に死が満ちている中で、ヤスパースは震えているだけではなかった。研究を続行したのである。60歳の誕生日には思いがけなく日本の教授らから祝電が寄せられた。これはことのほか嬉しかったと彼は述懐している。

1945年、夫妻の収容所送りが決定された。だが、その予定日の約2週間前に米軍がハイデルベルクを占領し、ヤスパース夫妻は危機を逃れることができたのだった。

(中略)

人の命は意味を持たなければならない。ヤスパースは友人への手紙にそう書いた。