「ラブライブ!サンシャイン!!」を社会改良派アニメ(!?)として語る回


みなさーん、お元気ですかー!? 暑いですねー! 

「カルピスソーダ 夏の爽やかパイン」が美味しいですねー(^o^)

(注:ステマではありません)


職場が盆休みに入りましたが、とはいえ遠出する資金などは持ち合わせてはなく、修羅の国・福岡から聖地・沼津は遥か遠く、銀行のキャッシュローンを利用して資金調達する手があるものの、返済のことを考えるとあまり乗り気がせず、夏休みを利用しての聖地巡礼は今回は無理だと悟って、とりあえずここは「夢の超特急ひかり号」でも拝んでおけwww
           
  
   (・○・)ピューン! ゴゴゴゴゴゴゴ……
     
      「未来じゅらー!」


      今年の夏の思い出は、もうこれでいいですねー(⋈◍>◡<◍)。✧
             Aqours(アクア)のみなさん

今回は、アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」の第3話から第6話までで個人的に印象に残った場面を踏まえながら、この作品の持つ面白さや普遍性について思うところを語っていきたいと思います。

いつものことですが、本記事はニュー・アカデミズム風のアプローチと言っても過言ではないと思われ、構成次第では夏休みの自由研究のネタにできるかもしれません。よかったですね!(^o^)・・・自分で言うなwww

ちなみに第1話、第2話については、すでにそれぞれ記事にしたので、ここでは触れません。

          ❤梨子ちゃん、しいたけ(注:この犬の名前)の試練❤

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それでは第3話から第6話までについて、かなりのピンポイントですが、サクッとおさらいしてみましょう(^ω^)

【第3話「ファーストステップ」】
この回はスクールアイドル部の設立を賭けて2年生組がファーストライブを実行するという話でした。

「サンシャイン!!」はご聖地アニメということで、現実の地元民に対する配慮やリスペクトもあるのか、初ライブ公演のエピソードは地域住民の人々も詰めかけて盛況のうちにED突入~♫みたいな流れでした。
            ❤ストロベリー、マンゴー、ブルーハワイ❤

個人的には、このへんのくだりが気になりました。画像を並べて再現してみましょう(^ω^)
 
 
 (ダイヤさん)
これは今までのスクールアイドルの
 努力と、街の人達の善意があっての
 成功ですわ」

 






 (ダイヤさん)
「勘違いしないように!」







 (千歌)
わかってます!」

「でも…ただ見てるだけじゃ始まらな
 いって…」






 

今しかない瞬間だから!」










 
輝きたい!」







・・・と発言した直後に「お客さんたちに向かってこんなこと言っちゃってよかったのかな?」と思ったのか、

不安そうな表情になる千歌ちゃん




その時、観衆から拍手が起こる。

この拍手は応援の気持ちとともに、
共感の気持ちも大きかったのだろうと思います。

表現者たる者、人々の心情を掬(すく)い上げて代弁する者でなければ務まりませんね!(^ω^)


お客さんたちの温かい拍手に迎えられて感極まって涙ぐむ千歌ちゃん

 ・・・このへんでED突入♫

  ざっと、こんな感じ???




さて、ここで「スクールアイドル」という概念について、少し考えてみたいと思います(^o^)

       ❤伝説のスクールアイドル「μ’s」でーす!(高海千歌さん談)❤

去年、劇場版「ラブライブ!」が全国で公開されて大成功を収めました。
そこではスクールアイドルを盛り上げる楽曲に「SUNNY DAY SONG」が披露されたりして、コンテンツ制作側のスクールアイドルに対する度を越した尋常ならざるこだわりように興味を覚えたものですが、そうしたら勝手に記事が一本できてしまいました(^o^) 

「μ'sがスクールアイドルであることにこだわる理由」について考える回

 
μ’sの時は「アイドル研究部」でしたが、「サンシャイン!!」では「スクールアイドル部」になっていて、ダイヤさんの言うとおり、今までのスクールアイドルの努力が偲ばれます(!?)

アニメ「サンシャイン!!」では初っ端から「スクールアイドル」の語が小鳥のしば鳴きの如く連発されて、最近に至っては、こっちも「これは何らかの意味内容が込められた表象であり、暗号化された記号なのではないか?」と、そんなことを考えるようになりました。

そういうわけで、今回は上の過去記事よりももっとピュアピュアな視点から、この「スクールアイドル」という表象について暗号解読を試みることにしてみましょう(^ω^)

「スクールアイドル」とは、もっと一般化すれば「アマチュア表現者と言えそうです。

これをさらに敷衍(ふえん)していけば、
「損得勘定を抜きにして、自分のやりたいこと、信じていること、そういったことに一生懸命に、夢中になっている人たち」

そのような人々を包含する概念として捉えることもできるでしょう。
ピュアピュアですね!(・8・)
               ❤あくまでもピュアピュア~♫❤

しかも、劇中の体育館ライブで披露した曲が「ダイスキだったらダイジョウブ!」♫♫
  

    「Oh!カンペキ!perfectデース!」

     ❤マリーさんのルー語www❤

日本国憲法では、「公共の福祉に反しない限りにおいて」という前提で個人の基本的自由権が一応、保障されてはいるものの、経済や社会の構造、世間の価値観、個人の資質といった諸般の事情によって、本当の自分を生きていない、出せていない、そのように感じている人たちは意外と多いかもしれません。

μ’sの時にも感じましたが、物語としてのラブライブ!」の面白さは、そうした現実を背景としているのではないかと、そんなふうにも考えたりしますが、皆さんはどのように思われるでしょうか?!

「本当の自分を生きていない」感、すなわち自己疎外感が強くなってくると、退屈や空虚感、イライラが募ったりして「生きる意味」の問いに捕まってしまったりもしますが、僕もかつてこの問いに捕まりました(^^;

学生の頃なんかは「哲学は役に立たないもの、宗教はアブないもの」と思っていましたが、
いざ自分が意味や価値の問題に捕まってしまうと、こっちの方面を探究せざるを得なくなってしまったわけです(笑)

「社会が良くなれば、市民の暮らしは向上して、もっと自分らしく生きられるのに……」

これには一理ありますが、こういう問題をまじめに考えている人は、こんなところで思考停止などしてはいられず、それよりもさらに考えを一歩押し進めて、「社会がさらに良くなるためには、一人一人が覚醒していく必要がある」・・・そのようなレベルに達しているでしょう。

物語としての「ラブライブ!」の主題については、過去の記事で論じたことがありましたが、
そこではおよそ次のようにまとめました。

 内的な飛躍を遂行して自分が自分自身になる。

 それを成就した者たちが協力し合って何かを成し遂げていく。


そこから「今が最高!」といったようなフレーズが飛び出してくるのは十分に自然な流れで、頷ける話だと、実際に一度でもそのような体験をしたことのある方ならすぐに理解できることでしょう。

μ’sの存在が、憧れとなってイデアとなって飛び火して、次世代のハートに火をつける。

こういった流れについては、例えばソクラテスプラトン法然親鸞の師弟関係にも似たようなつながりを彷彿とさせますが、実際、物語としての「ラブライブ!」は、どこか哲学的で覚醒教じみた面白さを感じさせてくれます。

個人的な覚醒とそれが世代をまたいで反復・伝播・普及していく・・・このようなスパイラルな図式で展開されていく「実存と構造」のパラダイムは、実は社会改良の定石と言っても過言ではなさそうで、スクールアイドルについて語りだしたら、いつの間にか社会改良の話になってしまいました(^^; ← 確信犯www

(けつろん)スクールアイドル深いっす!! 今後の活躍に期待です!
     
      あのシーンの、観客の拍手の理由がよくわかる(*´ω`*)


【第4話「ふたりのキモチ」】
これはルビまる回のようで実質的に花丸ちゃんの美談回みたいな印象を受けました。

花丸ちゃんは「一人でいられる能力」が発達している分、周囲より大人なのかもしれません。

ルビィ回は、また別の機会を設けてあるかもしれないですね!


    ❤美幼女化されてはいますが、遠い昔の自分の姿を見ているようで、わかる❤


  ❤「ぼっち」は、またの名を”The school of Genius(天才の学校)”とも言うwww❤

     ❤親友ルビィちゃんのスクールアイドル部への入部実現に向けて調査中❤

           ❤一瞬、偶然に目に留まったページから……❤

  ❤長い間、胸の奥に秘めてきた何かが呼び覚まされたのか、ずら丸の歴史が動き出す❤

        ❤仰向けになっても流れ落ちないバストは巨乳の証???❤

  ❤不器用そうで実は「好きこそものの上手なれ」キャラだった!? ルビィちゃん❤


【第5話「ヨハネ堕天」】
外面上はあくまで普通の常識人を装いつつも、その本性はエロ本&オナニー大好きの淫獣変態エロ紳士であるわれわれにとって、津島善子さん(本名:堕天使ヨハネ)は何かと親しみと愛着の情が湧いてくるキャラですね(^ω^)

            ❤ペルソナ(表側に見せる仮面)のよしこ❤


      ❤ビハインド・ザ・マスク(仮面の背後、すなわち素顔)のスマイル❤

             ❤無為自然、真正の姿 堕天使ヨハネ


          ❤「本当の自分」とは? 哲学を語るずら丸❤


❤しいたけのお茶目な振る舞いによって、秘められた能力が開発されていく(?)梨子ちゃん❤


【第6話「PVを作ろう」】

また廃校ネタかよ? 相変わらず
引き出し少ねーなwww

田舎の学校なら福祉施設介護施設や運動施設に転用した方が、地元の雇用も創出できて、政策的にはそっちの方がいいぞw


                         

・・・などと身も蓋もない野暮で無粋
なことを思いつつも、

ここで関心の対象とすべきは、
「廃校になるかもしれない!」という知らせを聞いた時の千歌ちゃんたちの態度や反応でしょう。



憧れのμ’sと同じ状況がキターーーーーッ♪

ピンチをチャンスとして捉え直す。

こういう楽観的で挑戦的な態度は、
実際に生きていくうえでとても大切な心掛けですね!(^o^)


      ❤感激のあまりノリノリになって、小躍りした後にポーズも決める❤

           「心豊かにたくましい自己を創造する生徒」「Girls, Be ambitous」
               「克己創造」
                            「革命」
                          「Ⅰ 地域への貢献」
                          「Ⅱ 仲間への貢献」
                          「Ⅲ 己への貢献」

 ❤背景の掲示板に貼り出された標語類に本作品の主題を見て取ることができそうですね!❤

このへんで何やら結論めいたことを述べさせてもらえば、「自己」というものが結局は関係性の産物で、それはまた静的なものではなく動的なもので、絶えざる自己理解と自己超克によって創造されていくべきものであると、そのように解釈することができるでしょう。
・・・クリエイティビティですね!(^ω^)

 ❤健康優良児・体育会系キャラにして何かと女子力の高い曜ちゃん(⋈◍>◡<◍)。✧

素人がビデオカメラを持って撮影したら、やってしまいそうなことwww



「リトルデーモンのあなた!

今日は、このヨハネが落ちてきた地上を紹介してあげましょう」







「まずこれが…」








「土!!」







               ❤こういうノリすき(^o^)❤

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このへんで話題を変えて、夏の課題図書の話とかしてみましょう(^ω^)

かつてどこかの過去記事でも紹介した覚えがありますが、
この本は面白いです(小並感)

クリスマスやバレンタインデーが近づいてきた頃にこの本を紐解けば、
いわば”精神面におけるインフルエンザ”の予防接種にもなりそうです。
経験的には、それくらいの効能がありますwww

ここでは、本書から本記事の内容と関連の深そうな箇所について抜き書きしてみました。

この記事で「サンシャイン!!」について語った章は上部構造をなして、ストーの『孤独』から引用抜粋した章は下部構造で、自分では勝手にそんなことを想定しています。高いビルには深い基礎があるwww(意味不明)

ただし、やたらと長い引用になったので、読むのが億劫に感じられるかもしれません。
少しでも読みやすくなればと思い、便宜的に3つのセクションに分けてみました。

私が意図するところでは、次の点に留意して読んでもらうと案外楽にかつ面白く読めるのではないかと思います。

【セクション1】
恋愛難民のわれわれにとっては、示唆されるところが大いにあるのではないか???

【セクション2】
花丸ちゃんやよしこのキャラの持ち味を堪能するためにも、あるいは作品世界に対する洞察を得るためにも、ここは是非とも押さえておくとよいでしょう(^ω^)

また、読者諸賢にとっては実はこっちの方が大切とも言えそうですが、自己理解の助けになるような記述が豊富にありますね!(^o^)

【セクション3】
まとめ・・・この本の結論的な記述があるので【セクション1】と【セクション2】を読んで興味を持たれた方は読まれるとよいでしょう。

アンソニー・ストー:『孤独』第12章より

【セクション1】p.283~p.284、p.286~p.287

プラトンの『饗宴』において、アリストパネスは、差し出がましくも友人たちに愛の力の秘密を伝授する。(中略)「愛とは」アリストパネスは言う、「完全体願望とその追求につけられた名称にほかならない。」

プラトンの神話は今日でも影響力がある。その後二十数世紀にもわたって、他人と性的に関係することによって完全性に到達し、自分を完成するのだという考えは、ロマンティックな文学の源としての主要な霊感になり、何千という小説の見せ場となってきたのである。今もなお、私たちのほとんどの者が強い影響を受けるほどの真実が、この神話の中にはある。特に青年期においては、愛する相手との性的結合は、いかにつかの間のものとは言え、他の経験がほとんど太刀打ちできないほどの達成感をもたらすことは確かである。しかし性は統合に到達するさまざまな方法のうちの一つにすぎない。

宇宙との完全な調和の感覚、他人との完全な調和の感覚、そして自我との完全な調和の感覚は密接に関連している。実際、私はそれらが本質的に同じ現象だと信じている。こういう経験の引き金となるものは多種多様である。マルガニタ・ラスキは、「自然、芸術、宗教、性的な愛、出産、知識、創造的な仕事、ある種の身体運動」を、最も一般的な例として挙げている。

(中略)

この種の経験はまた、外界からの刺激によって助けられなくても、孤独であれば自然に起こることもありうる。そういう超越的経験は、創造の過程のいくつかの側面、例えば以前には不可解だったものの意味が、突然分かるようになることや、それまではまったく別個のものに思われていた観念を結びつけることによって、新しい統合をつくり出すことなどと、密接に関連している。

プラトンの神話は、人間を、完全性や統合を絶えず求めている不完全な生物として描いているという点では、人間の条件を正確に説明している。しかし、統合を性的な関係という観点から述べるだけにとどまっている。実は、物事が突然一つにまとまる、あるいは、人生の意味を理解する、という超越的経験は、数学のような非人間的なものによって引き起こされることさえある。バートランド・ラッセルはそのような瞬間をこう描いている。

 11歳の時、私は兄を師としてユークリッド幾何学を始めた。これは、私の人生
 の大きな出来事に一つで、初恋のように目くるめくものだった。私は、この世に
 こんなに面白くて快いものがあろうとは、夢にも思っていなかった。

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【セクション2】p.289~p.292、p.293~p.302

精神分析が初めて一つの治療方法の段階に発展した頃、フロイトは、五十代以上の患者は引き受けないように、と忠告した。その年代の人は、たいていの場合、変化に必要な精神作用の柔軟性が欠けているという根拠に基づいていたのだ。精神分析の技法が念入りな過去の再現を要求する以上、フロイトはまた、これだけの長さの人生で蓄積された多量の診断データが、治療を果てしなく長引かせると感じたのである。

現代のフロイト学派の精神分析家たちは、しばしば中年以上の患者も取り扱うけれども、精神分析の主流が今までに常に目指してきたのは、幼少年期・青年期の理解と、親との感情的きずなからの個人の解放であった。この時期はまた、一生のうちで性的衝動が最もしつこく人間を駆り立てる時期であり、性的問題の解決が最も報われる時期でもある。

中年期の人々の問題に注意を向けるという仕事がユングと彼の後継者たちに残されていたのである。

心理学と精神療法へのユングの主な貢献は成人の発達の分野におけるものである。ユングは幼児期に対しては比較的わずかな注意を向けただけであった。その理由は、子どもが神経症の悩みを示す場合、通常、子ども自身の心理状態よりはむしろ、その子の親の心理状態を研究することにおいて、その問題の答えを求めるべきだと信じていたからである。

成人の発達の諸問題に対するユングの興味は、彼自身が1913年から第一次世界大戦終結時にかけて経験した危機に由来している。(中略)1913年7月に、ユングは38歳になった。この時までに彼は結婚し、父親となり、世界的に著名な精神医学者としての地位を得ていた。彼の望みは、フロイトとともに新しい精神科学を発展させることであった。しかし、彼の内なる、ある力が、彼自身の望みに逆らい、独自の見解を発展させることを強要したのである。

ユングは、現在では一般に「中年期の危機」と呼ばれる事象に最初に注目した精神療法家である。彼の悩みが、彼に長期間の自己分析を強制したのであり、その中で彼は自分の幻覚や夢を記録していった。その多くは、驚くほどの恐怖感を抱かせるものであった。しかし、この危険な時期を素材にして、ユングは独自の個人的見解をつくり上げた。彼はこう書いている。

 私が自分の心に中に現れる諸像を追いかけていた年月は、私の人生で最も重要な
 時期だった。その時にすべての肝要なことが決定されたのである。

ユングの自己分析が彼に与えた確信は、若い人の課題は、自分の生まれ育った家庭から自己を解放し、世間で身を立て、今度は自分の新しい家庭をつくり上げることであるのに対して、中年の人の課題は、個人としての独自性を発見し、それを表現することだ、というものであった。ユング人格を「一個の生物が有する生得的特質の最高度の実現」と定義している。

このような追求は本来独善的に行われるものではない。なぜなら、ユングの見解によれば、精神の内にあって、当人が自分でつくり出したものではない力の命令を当人が承認する場合にのみ、個性の本質が表現されるからである。人は、ある意味では自分自身に対して不誠実であり、創造主が人間にたどらせようと意図した道からあまりにも遠くさまよってきたため、人生半ばになって神経症にかかる。夢、空想、その他の無意識から派生するものの形で表れる精神の内なる声に細心の注意を向けることによって、さまよえる魂は、ユング自身がそれに成功したように、その本来の道を再発見できるのである。

自分好みの神を信仰することや、世間に認められた宗教的信条を支持することは治療の中に含まれてはいないが、患者に求められる態度、すなわち「心構え」は、実際に宗教的なものである。

ユングはスイス改革派教会の牧師であった父親によって養育されたが、その養育の基礎をなしていた正統派新教の教義に、子ども心に、もはや同意できないことに気付いていた。ユングの後の仕事全体が、自分が失った教義の代替物を見つけようという努力の表れだと断言してよいかもしれない。なるほどそういう推測は興味深いが、結局は大して重要ではない。ユングの考えが個人的な葛藤に由来するか否かが、その考えの正しさを立証するものでもなければ、それを否定するものでもないからである。最もよく知られた記述の中で彼が述べているように、

 私の患者のうち、人生の下半期、つまり35歳以上の人のなかに、その最後に行
 き着く問題が宗教的な人生観を見出すというものではない人は、一人もいなかっ
 た。
(中略)もちろん、これは、ある教会の特定の教義や入信問題とは、何
の関
 係もない。

ユングは中年の人の治療を専門とするようになった。

 私の手元にある診療記録は特異な構成を示している。初めて発症した例は、疑い
 もなくわずかである。ほとんどの患者は、すでになんらかの形の精神療法を受け
 ているが、ある程度の成果が見られるか、あるいはまったく成果が見られないか
 のどちらかである。患者の三分の一は、臨床的にはっきりと診断できる神経症
 かかっているのではなくて、自分の人生の意味の無さや目的の無さに苦しんでい
 る。
これを現代の一般的神経症と呼ぶにしても、私には異議はない。患者のまる

 まる三分の二は、人生下半期の年齢である。特にこの患者層は、合理的な治療の
 方法に格別の抵抗を示す。おそらく、私の患者の大部分が、社会的によく適応し
 ている人たちであり、しばしば優れた能力の持ち主なので、その人たちにとって
 正常生活療法(ノーマリゼイション)は何の意味もないからであろう。

そういう個人が、ユングの先導で歩み始めた自己発達の道は、ユングによって「個性化の過程」と名づけられた。この過程は、「完全性」、または、「統合」と呼ばれる目標、すなわち、意識と無意識の両域における精神のさまざまな要素がまとめられて、一つの新しい統一体になった状態を目指すのである。

ユングは自分の患者に、後に、「能動的想像」と呼ばれるようになる活動のために、一日のうち何時間かを空けておくように勧めた。これは一種の夢想状態で、その中では判断は保留されるが、意識は保持される。患者は、どのような空想が頭に浮かんだかを心に留め、それから、それらの空想が意識の干渉を受けることなく独自の道をたどることができるようにすることを求められる。このようにすることによって、患者は自分が開始した心理的旅行について描写するだけでなく、自分の心の隠された部分を再発見することができるかも知れないのである。

私が精神療法医を開業していた時、うつ病に悩む中年の患者の治療に、この手法を応用した治療法を採用することが時々あった。そういう患者は、若い頃に人生の情熱や意味を与えてくれていた気晴らしや興味を、職業や家族の要請に負けて、無視したり捨ててしまった人たちであることが多い。もし患者が、思春期の頃人生の意味付けをしてくれていたものを思い出すよう促されたならば、自分自身の忘れられていた側面を再発見し、そして、おそらく、音楽、絵画、その他の文化的・知的な楽しみに、再び心を向けるであろう。これらはいずれも、かつては熱中していたのに、生業の忙しさに屈して捨ててしまったものなのである。

能動的想像を粘り強く続けることは、人格の忘れられていた面を再発見することにつながるだけでなく、態度の変化にもつながる。それによって患者は、自分の自我や意志はもはや至高のものではない、自分は、自らの手で作りだしたものではない統合要因に依存していることを認めなければならない、と認識することになる。ユングはこう書いている。

 もし私たちが無意識は意識と並ぶ共同決定要因であると認識することができたな
 らば、
そして意識的要求と無意識的要求がともにできるかぎり考慮されるような
 生き方
ができたならば、人格全体の重心はその位置を変えることになる。そうな
 ると、重心は、意識の中心にすぎない自我のなかにはもはや位置せず、意識と無
 意識間の仮想中点に位置する。この新しい中心を「自己」と呼んでもいいであろ
 う。

ユングこの仮想中点への到達を、長く実りのない苦闘であったかもしれない過程の後に、心の平穏を達成することであると述べている。彼は次のように書いた。

 人々が自分の経験について語ることをまとめたならば、次のように系統立てて説
 明することができる。「人々は落ち着きを取り戻した、自分自身を受け入れるこ
 とができた、自分自身と和解することができるようになった、それゆえ自分にと
 って不利な環境や出来事とも和解した。」これは、「人が神と和解した、自分自
 身の意志を犠牲にした、神の意志に身をゆだねた」という言い方で、昔よく表現
 されていた事柄とほとんど同じである。

これは、洞察や、他人と新しいよりよい関係をつくることによる治癒ではなく、ましてや、目下の問題を解決することによる治癒でもない。これは、内的な態度の変化による治癒なのである。

ユングは、昔の患者からの手紙を引用しているが、それは、彼がいま言及している変化を説明している。

 災いが転じて多くの福が私に訪れました。平静を保ち、何も抑制せず、常に注意
 を払い、現実を受け入れる――
物事を、私が望む姿ではなく、あるがままの姿で
 受け入れる
――こういうことをすべて実行することによって、普通では分からな
 いことが分かるようになったのです。普通ではできないことができるようになっ
 たのです。

 こんなことは、いままで想像もできなかったことです。私はいったん物事を受け
 入れてしまえば、自分はなんらかの形でそれに押しつぶされてしまうだろうと考
 えていました。この考えは、まったく真実ではないとわかったのです。
人が物事
 に向かう一つの態度を決めることができるのは、物事を受け入れることによって
 だけなのです。

 だから私は今、善と悪、永遠に交替する太陽と影を含めて、私に訪れるものは何
 でも受け入れて、人生を誠実公平に生きるつもりです。そうすることによって、
 すべてのものが私にとってより生き生きとした姿になるのです。

 私はなんと馬鹿だったのでしょう! すべてのものに、私が理想とする進み方を
 押し付けようとして、なんと無理な努力をしていたのでしょう!


これにとてもよく似たことが、ウィリアム・ジェイムズによって述べられている。

 緊張・自己責任・不安から、平静・受容性・平穏への変化は、私がこれまでに何
 度も分析してきた
内的平衡の変化、自己の活力中心の移動のなかでも、最も驚く
 べき変化である。そしてその最も驚くべき点は、
その変化が、何かを行うことで
 はなく、ただくつろいで重荷を降ろすことによって起こることが多い
ということ
 である。

この三人の著述家が記述している心の状態は、突然引き起こされ、普通は短時間しか続かない恍惚状態の激しさと同一ではないけれども、明らかに建設的なあきらめ以上に価値あるものである。ウィリアム・ジェイムズはこう書いている。

 神秘的な状態が長く続くことはありえない。まれな例を除いては、半時間か、せ
 いぜい1、2時間がその限界であり、それを越えるとありきたりの日常生活の光
 の中に徐々と消えていくように思われる。いったん消えてしまうと、その特質は
 記憶の中できわめて不完全な形でしか再生されないことが多い。

 しかし、その状態が再現すると、今度はその特質が認識される。そして、繰り返
 し再現するうちに、その特質は内面的な豊かさや価値として感じられるものにな
 って、
持続的に発達していくことができる。

個性化の最終段階は、ユング意識と無意識の新しい相互作用と述べている、新たな内的統合の経験を伴うが、この点は恍惚状態と共通である。平穏の感覚、人生と和解したという感覚、より大きな全体の一部であるという感覚は、恍惚状態にきわめて似ている。患者は、自分の内部にありながら自我ではない統合要素に依存していることを認めるようになる、というユングの考えは、宗教的神秘主義者の体験談の中でしばしば語られる「神に仕える」というさらに受動的な態度と、同列である。

こういう統合経験が突然起こるにせよ、徐々に起こるにせよ、通常は心のなかに永続的な影響を残すと思われるほど印象が強い。しかし、このような平穏の状態に達した人は、中断することなく、あるいは永久に、それを保持するであろうと推測したとすれば、それは単純すぎるというものである。

(中略)

自分は完全であるという恍惚感は、必然的につかの間のものである。なぜなら、そのようなものは、私たち人間という種に特有の「不適応による適応」という生存形態全体において、何らの役も果たさないからである。ボエオティア人の凡俗な至福は発明発見に通じない。想像力の飢餓、完全体願望とその追求は、何かが欠けているという認識から、不完全の自覚から、生じるのである。

ユングの統合の概念は、時々誤って解釈されることがあるけれども、実は、静的な精神状態を意味しているのではない。ユングの見方では、統合と精神的健康に向かう人格の発達とは、決して完全に到達されることのない理想、あるいは、たとえ一時的に達成されることがあっても、その後必ず別のものに取って代わられてしまう理想なのである。ユングは、人格の理想的発達の達成は決して完成することのない、生涯続く課題であり、決して到達することのない目的地に向かって希望にあふれて出で立つ旅であると考えた。

精神分析の過程で得られる新しい態度は、遅かれ早かれ、なんらかの点で不適当になる傾向がある。人生の流れが、繰り返し新しい適応を要求するので、必然的にそうなってしまうのである。適応が最終的に達成されることは決してない。(中略)結局、あらゆる障害を取り除く治療法が存在し得ることなど、およそありそうにない。人間は障害を必要とする。それは健康に必要なのである。今、私たちに関係があるのは、障害が過度の量に達した状態だけである。

個性化の道と、その過程で起こる態度の変化は、天賦の才を授かった男女が語る自分の創造過程についての説明と、ぴったり一致することがある。まず第一に、新しい着想が生まれたり、霊感がひらめいたりする時の心の状態はまさに、ユングが患者に勧め、そして「能動的想像」と名付けた心の状態である。たまには新しい創作や仮説の芽生えが夢の中で起こることがあっても、覚醒と睡眠の中間にある夢想状態において、新しい着想が心に浮かぶことのほうがはるかに多い。

イェーツやワーズワースのような詩人は、こういう状態を、眠りながら覚めている状態であると説明することもある。それは着想や心像が姿を現し、勝手にその道がたどることが許されている状態であるが、当人がその進行過程を観察し記録できる程度には目覚めて意識のある状態である。「能動的想像」にいそしむ患者も、霊感を求める創作家も、共に受動的になり、心の中で物事が起こるがままにしておくことができなければならない。

多くの作家が、自分の作り出した登場人物たちが、作者から独立して独り歩きの生活を始めるように思われること、そして、時々、作家自身の意志というよりは、何か命令を下す力のようなものに自分のペンが導かれているように思われること、について述べている。たとえば、サッカレーは次のように記録した。

 私は、自分の創り出す登場人物たちの何人かが行う監察に、かねがね驚いてい
 る。まるで目に見えない「力」がペンを動かしているかのようである。登場人物
 が何かやり、何か言う、そして私は、一体全体どうしてそんなことを考えついた
 のか、と尋ねる。

ジョージ・エリオットは、J・W・クロスにこう語った。

 自分の最良の作品と考えているものには、すべて、私に取りついた「自分自身で
 はないもの」が入っています。
私自身の個性は、この、言わば、精霊が動き回る
 のに使われる道具にすぎない、
と私は感じています。

ニーチェは『ツァラトストラはかく語りき』について次のように書いた。

 19世紀の終わりに生きている人のうちの誰か、想像力の活発な年代の詩人たち
 が
霊感と呼んだものについて明確な概念をもっているのだろうか。もし誰ももっ
 ていないのならば、私が今それを述べよう――
もし人が内に迷信の残滓をほんの
 わずかでも持っているならば、自分は圧倒的な力の単なる化身・単なる代弁者・
 単なる媒体にすぎないという考えを捨て去ることは、ほとんどできないであろ
 う。

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【セクション3】p.305~p.306

この本の出発点は、高度に創造的な人々の多くは著しく孤独だ、しかし、それゆえに彼らが必然的に不幸だ、あるいは神経症だ、と推測することは無意味である。という所見であった。

人間は社会的生物であり、確かに他者との相互作用を必要としているけれども、個人がお互いにつくり合う関係の深さには大きな差異がある。すべての人間が対人関係だけでなく、興味も必要とする。人間はみんな、人間的なものだけでなく、非人間的なものにも向かうようにつくられている。

幼年期の出来事、親から受け継いだ才能や能力、気質的な相違、その他多くの要因が、人生の意味付けをするために個人が主に他者に向かうのか、それとも孤独に向かうのか、という選択に影響を与えるかもしれない。

孤独になる能力は貴重な資質であり、学習、思索、改革、変化への順応、そして内なる想像の世界との接触の維持を促進するものである、ということが概略的に示された。

親密な関係をつくる能力が損なわれてしまった人の内部においても、創造的想像力の発達が治癒の機能を果たすことができることが分かった。

創造的な個人の例をいくつか挙げておいたが、その人たちの主要な関心事は他人との関係よりも、人生の意味付けをし、人生の秩序をつくり上げることであった。それは、つまり、非人間的なものに対する関心であり、これは年齢とともに深くなっていく傾向があることも示しておいた。

世界に対する人間の適応は、主として、想像力の発達と、必然的に外的世界と対立する内的精神世界の発達によって、支配されている。完全な幸福、内的世界と外的世界が完全に調和した大洋感情が実現するとしても、それはほんのつかの間のことである。人間は絶えず幸福を求めている。しかし、それは、ほかでもなく人間の本性の所業である。

対人関係においても、創造的な努力においても、最終的に、あるいは、永久的に幸福を実現することは、阻止されている。

この本全体を通して注目してきたことは、個人が出会う最も深くて治癒力のある心理的経験のうちのいくつかは、内なる世界で起こるものであり、人間同士の相互作用との関係は、たとえあったとしても、きわめて遠い関係にすぎない、ということであった。

最も幸福な人生とは、たぶん、対人関係非人間的なものへの興味のうち、どちらも救済への唯一の道として理想化されていない人生であろう。完全性願望とその追求は、人間の本性が備えているこの両面を含むものでなければならない。

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ここまで読んでいただいた皆さん、完走おめでとうございます(^ω^)
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自ら自然に納得のいく良い人生が送れるといいですね!