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【ネタバレ注意】 アニメ「ラブライブ!」の「物語性」について考える回

先週、劇場版「ラブライブ!」を観てきました。これで二回目です。レイトショーの時間帯に入場したら特典のミニ色紙はもらえませんでした。。。

とはいえ、二回目の観劇では、なぜか海未ちゃんが特にかわいく見えてきて、劇場の大画面であれをまた観たいような気もして、現在、財布と相談しながら三回目を観に行こうか考えているところです(笑)

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では、本題に入ります。

・・・前回、このような記事を投稿した。

【ネタバレ注意】ブログ記事「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」への反論と賛辞【8887文字】 - marronkun172’s blog http://marronkun172.hatenablog.com/entry/2015/06/28/080151 …

 

上記の記事では、"アニメ「ラブライブ!」に物語性はあるのか?"をお題に、まとまりに欠けるものの、それを肯定する立場から思うところを述べた。

そこで肝心なことを言い忘れたので、ここで補足しておく。

TV版・劇場版含めて、アニメ「ラブライブ!」における「物語性」は、ストーリーの中で人間や人生の暗黒面に積極的に関わったり、自化し得ない世界と対峙する人間の姿を描いたり、そういうことはしないので、なるほど深みには欠けると認めざるを得ない。

しかし浅薄かというと、そうとも言い切れない。というのは、その物語性には、深みの足りない分を補ってもなお、お釣りが返ってくるくらいの、われわれを惹きつける何かがあるように思えてならないからである。それは何か? その点について少し考えてみたい。

結論から先に述べてしまうと、アニメ「ラブライブ!」の物語性とは、楽曲のメッセージと連動して、受け手にとって親しみやすい、もっと言えば主体化しやすいものとなっている。

まずはこれであろう。また、このことは「ラブライブ!」の人気を支えている要因の一つでもあるだろう。

個人的にはこのように考えているのだが、しかし、これでは何のことやら、この文章を書いている本人ですらいまいちピンとこないので、この点について簡単ながら検証してみたい。

 

まず、ここで問題となっている「物語性」について簡単に定義しておこう。

人は、誰かに何かを伝えたい時、何かを知ってほしい時、分かってほしい時に「物語」をする。そのような前提に立って「物語性」を定義すると、大まかには次の二つの条件を満たしていることだろう。

 (1) 作品を通して何が言いたいのか、一貫した主題がある。

 (2) 作品を通じて語り手や聞き手たちが世界を共有できる。

 

この定義を踏まえて、具体的な事例で見てみよう。 

f:id:marronkun172:20150712074909j:plain

劇場版の冒頭では、穂乃果の幼少期のエピソードが語られる。

夕暮れの公園で、穂乃果が海未ちゃん、ことりちゃんたちに見守られながら、大きな水たまりを飛び越えようと何度も挑戦するシーンが現れる。

何度やってもうまくいかない。それでも簡単にはあきらめそうにない穂乃果。そんな折、どこからか流れてきた歌声をふと耳にする。その歌声に力付けられ勇気付けられて、歌声に乗りながら駆け出して跳躍した瞬間、それまで悪戦苦闘していた水たまりをひょいと飛び越え、この挑戦はささやかな歓喜をもって無事成功に終わる。

 

冒頭に出てくるこのシーンは、和菓子職人の娘である穂乃果の元来の性格であろう内部指向的な性格とともに「歌が持つ力」というものについても語られている。歌声が持つその不可思議な力は「飛躍を媒介する力」と言い換えてもいいだろう。

この「飛躍を媒介する力」なるものは、ストーリー全体を貫く通奏低音となって、アニメ「ラブライブ!」の物語性を支えるライトモチーフであり、劇場版においては、このことがすでに冒頭で端的に語られている。

そして、ここで語られる「穂乃果と歌との関係性」は、「われわれとμ'sとの関係性」に置き換えることもできる。

深みには欠けるが受け手にとって親しみやすく主体化しやすい、その根拠について、劇場版では、すでに冒頭の場面から求めることができるというわけである。

あたかも精霊の力を借りて宙を舞うかのように、歌の持つ力に助けられながら、われわれも現実で直面する困難や障壁を飛躍し超越していく、またその過程を通じて自分の知覚できる世界を拡大しながら、われわれもさらに新しい場所へと辿り着く・・・ラブライブ!」の物語性は、楽曲のメッセージと連動することによってその効験が十分に現れる性質のもので、そしてさらに、それは、現実のわれわれの人生の物語性を精神面で支援する性格のものである。

これは、夢や目標を持って「今」を一生懸命に頑張っている人たちほど共鳴しやすいのではなかろうか? そのように思われる。

これはおそらく「まどマギ」にはない魅力である。また芸能人の中にもファンがいたり、コンテンツが何やら宗教じみた雰囲気を帯びている理由も、このへんと関わりがあるだろう。

アニメ2期の中で出てきた「みんなで叶える物語」のキャッチフレーズは、μ'sとファンとの関係性に注目すれば、以上に述べたようなところまで含意しているのかも知れない。

これは完全な余談であるが、芸能界は実は孤独で厳しくしんどい業界なので宗教に走る人たちもちらほらいると聞く。

 

劇場版のストーリーで、現在の穂乃果が夢の中で(ヤスパースの実存哲学に出てくる超越者のような存在の)女性シンガーの助けを受けながら大きな水たまりを飛び越えるシーンからスクールアイドルの祭典~「SUNNY DAY SONG」~「僕たちはひとつの光」までのくだりは、テンポよく流れた感じがした。

それで結局、二回目の鑑賞で最も印象に残ったシーンといえば、「SUNNY DAY SONG」の海未ちゃんが、特にかわいかった❤(笑)

あと、どうでもいいことで率直な感想として「これは警察から道路の占有許可とるの大変だっただろうなあ」などと思った。これは一回目に観た時から思った(笑)

「超越者」「ヤスパースの実存哲学」の用語の意味について、参考はこちら

ところで、2ちゃんねるまとめブログには、「SUNNY DAY SONG」で海未ちゃんだけ画面から消えてる、みたいな記事もあったけど、それを引き算しても、このライブシーンでの海未ちゃんのアップはかわいかった❤

話が脱線してしまった。本題に戻ろう。

何かとてつもなく不幸な出来事に遭遇したとか、そういう深刻さは無いものの、それなりにジレンマに陥っては悩んで、ひとつ行動を起こすことによってそれが解決できた時の心境とは・・・それもまた、重たいものが底に沈んでいった後の上澄みのような「軽み」の境地であることには、やはり変わりないだろう。

「SUNNY DAY SONG」~「僕たちはひとつの光」のライブシーンを観た後になって、そのような考えが頭に浮かんだ。

アニメ「ラブライブ!」の面白さ、普遍性は、実はこの「軽み」の境地を先鋭化させて表現したことにあるのではないだろうか? ライブシーンはその象徴的表現である。そのように考える。 

そして、この「軽み」こそが、われわれに元気を分け与えてくれ、まだ知らない新しい場所へとわれわれを連れて行ってくれる「魔法の暗号」となるのだ! たぶん。

 

余談ながら、世の中の宗教には「ジェダイ教」なるものがあるらしい。

まどマギ」はストーリーの内容が宗教じみていたので、「まどマギ教」なる現象も十分ありうる話だとは思ってはいたものの、それについては特に目立った話題はなかったように思う。しかし「ラブライブ!」はそれとはちょっと訳が違っていた。「ラブライバー」と呼ばれる熱心なファンたちによって、いつの間にかすっかりと宗教的な雰囲気が醸成されてしまったのだ!・・・なので、「ラブライブ教」なるものは、事実上すでに存在していると言っても過言ではない(笑)

 

閑話休題。先に「…穂乃果の元来の性格であろう内部指向的な性格」と書いたが、この点についても少し触れておこう。

「内部指向的な性格」とは「内部指向型パーソナリティの傾向が強い性格」ということであるが、この対概念は他人指向型パーソナリティである。

「内部指向型」や「他人指向型」の用語の意味について、参考はこちら

ここでは、ちび穂乃果が大きな水たまりを飛び越えることにチャレンジした動機について考えるわけであるが、穂乃果は、海未ちゃんやことりちゃんたちに「自分のスゴいところを見せてやろう」とか「褒められよう」とか「喜ばせよう」とか、そういうことを考えて行動したとは思えない。

一方、海未ちゃんとことりちゃんは「早く帰ろうよう」とか言いながらも、穂乃果を置いて帰ろうとはしない。この二人は、早く帰りたい気持ちと結果を見届けたい気持ちと相半ばな状態にあったのかも知れない。

 

ここでの穂乃果のチャレンジの動機は、例えば、登山家がある山の登頂に挑戦する理由を聞かれた時に「そこに山があったからだ」と答えるようなシンプルなものだろう。しかし、それは興味に対する純粋な態度の表われでもある。「内部指向的な性格」というのは、ややくだけた感じに捉えれば、このような性格を指す。

穂乃果は、地位や富や名声とは、或いは利他的な精神などとは関係なく「だって、面白そうだから」という理由で行動を起こして情熱を傾注することのできる、市場原理が支配的な現代社会のイデオロギーからは割合に自由な「奇特な現代っ子」であるとも言えそうだ。

明るくて行動力はあるものの、周りに対しては少々強引で独善的とも言える穂乃果の、いわば内部指向的な性格は、TV版にしろ劇場版にしろ、アニメ「ラブライブ!」でのストーリーを展開する鍵となっているように思う。それはまた「μ'sがスクールアイドルであることにこだわる理由」に関わる事柄でもあるだろう。

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さて、ここまで書いたところで時間的に厳しくなってきたので、また体力気力の方もしんどくもなってきたので、続きは次に回して、予定では再来週あたりにでも「μ'sがスクールアイドルであることにこだわる理由」について思いついたり考えたりしたことを書きたいと思います(笑)

最後に、この記事を最後まで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。

それでは、ごきげんよう!

 

【ネタバレ注意】ブログ記事「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」への反論と賛辞【8887文字】

おりあそ氏のブログ記事  “アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html …

 

これは、なかなか面白い記事で、コメント欄も賛否両論、傍観者、ただの荒らし等々、様々な意見で賑わってました。この記事には、何やら読む人の心を揺さぶるものがあって、自分もいくつかコメントを投稿しました。 

おりあそ氏の記事にある文章は、読んでて無性にムカつく煽動的な文体で、それで自分もコメントを何本も投稿したわけですが(ただし、煽動的な文体の理由については本人がTwitter上で明かしていましたが)、思い直せば、氏の文章には、一石を投じて議論を沸かせる力があったとも言えるわけで、正直言うと、そういう文章が書ける人は大変に羨ましく思います。今は思いを改めて、なかなか頼もしい好人物だと評価しています。

ここでは、自分が思ったままに投稿したコメントを、まともな意見から罵詈雑言まで含めて時系列で並べ、それに少々補足を加えたものを掲載しています。

なお、私は劇場版「ラブライブ!」は、現時点ではまだ1回しか観ておらず、それについて述べられた感想はあくまでも第一印象であって、覚え間違いもあるかと思います。ご了承ください。 

ちなみに私自身は、「ラブライブ!」との関わりついては、去年の夏のニコニコの一挙放送でアニメを見てからいよいよ好きになったようなニワカなので、自らをラブライバーと名乗れるほどでもなく、いわゆるライト層の位置付けくらいだと思います。イージーライバー、ヒヨっ子ライバー、そんなところでしょう(笑)

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【投稿コメント その1】

劇場版はファンサービス的な位置付けだと思われ、また、最後のライブシーンのところで1期3話のファーストライブのことなどをを思い出せば、それなりに感極まるものがあるし、衣装に注目すれば、「スタダ→キラセン→僕たちはひとつの光(?)」の成長の過程が窺えるかと。「物語性が感じられない」というのは、あくまでも映画単体での話でしょう。なるほど、映画単体で映画評論家風情で評論しようとすると、辛口になるのは仕方ないかもしれません。。。
(補足)
ファンには内輪ネタで楽しんでもらって、劇場版で初めて「ラブライブ!」に触れる人にはライブシーンで鳥肌立ってから関心を持ってもらう・・・というのがセオリーなのだろう。 
 
劇場版なので、ツカミは、海外にでも飛んで景気よく派手にドカーン!
これもセオリー。 
 
先に海外で好評を得てから日本で逆輸入式に認知度が上がる事象はクールでカッコいい。制作者の中にYMOのファンがいたのかも知れない(?)
 
「みんなで叶える物語」は「みんなで創作する物語」の要素もあって、各キャラには象徴的な属性のみ与えておいて、キャラについての具体的な物語はファン自身が自分たちで作っていけばいいとも思うし、あえて隙間を作っておくことによってコンテンツを盛り上げていく、そういう考え方もあるでしょう。
(補足)
例えば「海未ちゃんと僕の日記」をつけることをおススメします。「自分はこの日この時、こういう行動をした。もし海未ちゃんだったらどう行動しただろう?」
こういう想像力は大切(笑)

ラブライブ!」はコンテンツの展開において「けいおん!」についてはかなり研究したんじゃないかと、個人的にはそういう気がします。脚本つながってるし(笑)「満れば欠ける」の無常の理、綺麗な幕の引き方、そのへんには結構神経使ったんじゃないかな、そのように想像します。
 
スクールアイドル大会のライブは、μ'sを伝説の域にまで持ち上げて次のプロジェクトに繋げるための伏線をここで張っているとも考えられるし、サンシャインを意識してのことではないか、と想像は膨らむばかり(笑)

好きな女の子がいる。彼女についての断片的な情報が与えられて「ああかしら?こうかしら?」とあれこれ妄想を逞しくする行為は、悩ましく愚かしく、でもこれは幸福のひとつのカタチであるともいえる。受け手を幸せな気持ちにさせないなら、「ラブライブ!」というコンテンツは明らかに失敗してる。肝心なのはここだと思う。なので、投稿主が、にこちゃんについて言及しだしたら、議論の筋がコロッと変わっていたかもしれない。。。
Posted by at 2015年06月24日 03:53
 
【投稿コメント その2】
文章表現力はあるんだろう。でも、その主旨は、古参がニワカを叩きたがってるだけの内容ではないかと。
Posted by at 2015年06月24日 04:55
 
【投稿コメント その3】
かよちんNYご飯ネタをこき下ろしてるけど、海外に行ってご飯やみそ汁が恋しくなった経験があれば、これはネタとしては自然な流れ。
Posted by at 2015年06月24日 14:38
 
【投稿コメント その4】
投稿者の文章自体はなかなか骨のあるものだったけど、内容については腑に落ちないものがあった。この人のtwitterのツイートまで含めて読んで、感じざるを得なかったのは、心底にあるものがどうやら、
「映画について建設的批判をしたつもり。制作陣の誰かに見てもらえたかも?」
「おれはキャラを愛玩動物や観葉植物のようには見ない。人間として(ただし「美少女に限る」とか?)見ている。お前らとは訳が違うぜ。」
・・・結局、そういうことなのだろうか!? 中身がスノッブすぎて笑けるwww

心のモヤモヤがスッキリしました!
Posted by at 2015年06月25日 11:50
 
【投稿コメント その5】
・・・でも、前段については、投稿者はこのコンテンツにおける今後の作品のあり方について、制作者側に対して改善要求してるだけか。これは失礼しました。。。
Posted by at 2015年06月25日 12:10

(補足)

このへんまでは、まだ記事の内容に対してムカついた気持ちがありました。脊髄反射的に個人攻撃な発言に出て申し訳ございません。謹んでお詫び申し上げます。

 

【投稿コメント その6】

60年代頃のフランスのヌーベルバーグの映画は表現重視で、10年前くらいだったか、この手の映画を面白がって、この手の作品をリバイバル上映してくれる小劇場によく足を運んだものだった。

カットのワンシーンやセリフ回しはカッコよくて、ストーリーはあっても物語はなかった。スチール写真やポスター、チラシ、劇場での予告編などに釣られて観に行ったら、「何が言いたいのかさっぱり分からなかった。でも、あのシーンはカッコよかった。」、感想といえば大体はそんなところに収まった。

制作者側の年齢的なところまで考慮すると、現在において映像を職業にしてるような人たちには、ヌーベルバーグの洗礼を受けた人たちも少なくないのではないかと思われる。

ハリウッドのような壮大な物語を持った作品を作れるだけの企業体力のない日本の映画界にとっては、ヌーベルバーグの表現重視の短編・中編の作品は、低予算でそれなりに面白い映画を作る一つの可能性だったのではないか、そのように思われる。

さて、ここからが重要なのだが、アニメの中でのμ'sは解散した。これで、ことりちゃんは心置きなくフランスに留学できる。海未ちゃんが穂乃果を独占できる悦びに浸る。そういうエピソードをスピンオフで作ってくれたら素直に喜ぶ(笑)
Posted by at 2015年06月25日 13:03 
(補足)
そういえば、「アニメは海未ちゃん回だけ抜けている」というネタを、どこかの2ちゃんねるまとめブログで見たことがある。

 

【投稿コメント その7】

おりあそさんは、劇場版がμ'sの引退の花道を飾るのに相応しい作品であることを大いに期待されて観劇されたんでしょう。

しかし、期待してたほど感動できなかった。そして、その理由を探った。

各キャラの描き込みが足りない。作品の中に一貫した主題が見当たらない。それで感情移入しづらい。どうやら、そういうことらしい。

ただ、感情移入する能力や主題(意味内容)を発見する能力には、性格や経験、知識の違いで個人差がある。
(補足)
あくまでも一般論です。

ラブライブ!」の楽曲は、元気応援ソングとラブソングと、ほぼこの二つに集約される。前者については、夢、希望、現状の突破、すなわち「飛躍」を主題としたものが多く見受けられる。物語としての「ラブライブ!」の第一主題は「飛躍」である。
(補足)
アニメ1期のop曲「僕らは今のなかで」は露骨なほどに「飛躍」の歌であることからも理解できるだろう(笑) 
op曲が物語の内容を貫く主題を示唆している。これはよくあること。
 
個人的に思うのは、「ラブライブ!」というコンテンツは、まず楽曲ありきで、アニメは、キャラクターにもっと親近感を持ってもらうための方便だと捉えている。
 
物語としての「ラブライブ!」は、楽曲の歌詞にある世界を可視化して展開したものと言ってよいかも知れない。また、主題の一貫性を保つために、そうあるべきだと思う。
 
劇中の謎の女性シンガーは、飛躍を媒介する者として現れる。穂乃果が歌うことの意味について悩むところで現れては、そっと肩を押す。穂乃果が(内面的な)飛躍を遂げた後は、その姿を消す。あの謎の女性シンガーは、有神論的実存哲学の文脈に置き換えると「超越の声」「超越者」「存在の根源」といった形而上的存在者に該当し、それが表象となって、迷える穂乃果を手助けするのである。ファンタジーではあるが、実はわれわれの現実生活においても普遍性がある。それは、何か重大な意思決定を下さなければならない局面になった場面のメタファー(隠喩)であるからだ。
 (補足)
肩を押す(誤)→背中を押す(正)
 
女性シンガーは「存在の声」と言い換えてもいいだろう。このキャラクターには一般的な名称だけ与えておいて、あえて固有の名称を付けなかったために、かえってこのような解釈も可能となった。
 
女性シンガーは「未来の穂乃果の姿」という説が有力みたいで、これは妥当だと思う。穂乃果は自分では意識されない深層のレベルで、すなわち自我レベルよりもさらに深みにある生命のレベルにおいて、すでに未来の自分の姿をはっきりと描いているのだろう。それほど歌うことが好きなのだ。
 
現実の人生においても、世俗的な成功を収めたかどうかは別として、自分の夢を叶えた人たちの心理というのは、実はこういうものなのかも知れない。人間とは自分で考えている以上のものである。 
 
謎の女性シンガーは、さりげなく現れては、さりげなく消えていく。「超越者」というものは、完全に把捉されると、その神秘の力を失ってしまうものなのだ。 
(補足)
われわれにとっての μ'sも、超越者の暗号なのだ(!?)

おりあそさんの評論は、チェリーピッキングな議論に終始してはいるものの、個人的にはこういうところまで考えが回ってきたので、最初は読んでてムカついたけど、今は感謝してます(^^)
Posted by at 2015年06月25日 16:08
 
【投稿コメント その8】
花田先生のこと悪く言うの、私許さないんだから! 絶対に許さないんだから!(京都の高坂さん)
Posted by at 2015年06月26日 10:36
 
【投稿コメント その9】
昨日、「ラブライブ!」の物語性、一貫した主題は「飛躍」である、と言った者です。TVシリーズからその根拠を辿ってみましょう。ちなみに「飛躍」の意味は、大雑把に言えば「内面の葛藤を主体的な決断で乗り越える」みたいな感じです。

それぞれのキャラは、他人からすればどうでもいいようなことを延々と引っ張ったりする、ある意味ややこしい人たちなので、こういう人たちには仲間の助けが必要です。その過程で友情が育まれます。ドラマが生まれます。

花田先生のドラマツルギーには「友情」や「助け合い」を前面に出し過ぎなところがあるのか、「場当たり的でベタでクサい芝居」が不評を買ってか、洗練された完全な非の打ちどころのないストーリーを好む受け手からは叩かれることが多いように思われます。個人的には、「ラブライブ!」の脚本は花田先生でなければならない必然性を2期9話で確信しました。ちなみに私はベタドラマ愛好家です(笑)
(補足)
初見の印象で、スノハレのライブシーンが驚くほどに輝いたのは、あのベタなドラマの前置きがあってこそだったと思う。ここは天才的な演出!(キッパリ)
 
ここでいう「ベタドラマ」は、TVドラマ作品の方ではなく、一般に「ベタなドラマ」の意。

「飛躍」の物語の話に戻りましょう。

まず、アニメ1期では、(これは分かりにくいかもしれないが)まず海未ちゃんが飛躍します。(これからは分かりやすい)次にかよちんが飛躍します。にこちゃん、えりち、まきちゃんが次々と飛躍します。最終話でことりちゃんが飛躍します。スタダで締めくくります。

アニメ2期では、凛ちゃんとのんたんが飛躍します。
(補足)
2期8話、のんたんの飛躍の物語も分かりにくいかもしれない。
回想シーンで、のんたんがえりちに初めて話しかけて自己紹介しようとする時に、「私…」から「うち…」へと、とっさにユルめの口調に切り替えた場面があった。
小さな飛躍ではあるが、その後の彼女の学園生活は大きく変わることになる。そのあとのくだりが、また感動的であった。
 
アニメ2期では各キャラクターのエピソード、いわゆる「○○ちゃん回」は少なくなって、その代わりに「 μ'sの物語」へと移行していった感は否めない。
 
1期の合宿回は水着回でしかも真姫ちゃん回が入っていたので、ファンには好評だったかも知れない。2期の合宿回はユニット別行動だった。
余談ながら、かよちんが摘んだ花を笊(ざる)に盛ってテントの方へ持ち帰ってくるシーンは、あれは、おっさんがイメージする乙女像のように思えたw
 
ラブライブ!」というコンテンツは、まずはCDの売上増加が至上命令にあることは想像に難くない。ラ○ティスさんから何か強い要望があったのかも(?!)
 
しかし、アニメ2期で各キャラを人間性のレベルでもっと掘り下げていくことを期待していたファンにとっては、この流れには不服だったようである。気持ちは分かる。
 
その点、「にこちゃん回」は1期と2期両方あったので、にこちゃんは優遇されていた。俗物根性丸出しで健気な性格と、ズッコケ役でどちらかというと損な役回りの多いキャラクターは、見る者にとっては、心当たりのあるところもいろいろあって、共感を得やすいのだろう。
 
自分は、いわゆる「にこ推し」ではないものの、アニメ「ラブライブ!」の面白さの半分くらいは、にこちゃんで持ってるんじゃないかと思う(笑)
 
アニメ2期opの後ろで踊ってるモブ集団は、いざ意識して見だすと、何だか薄気味悪い気色悪い、何やら蠢(うごめ)く得体の知れない集合体に見えた。この点については、2期で嫌いになった人たちの気持ちがよく分かる。
 
劇場版のスクールアイドル大会でのライブシーンは、その反省なのか、或いは二の舞いなのか、そこは意見が分かれるところ(!?)

TVアニメでは、本作品の主人公という名目上、みんなの引っ張り役に回ったためか、実は、穂乃果だけ、飛躍の物語がありませんでした。

なので、劇場版で、主人公である穂乃果の飛躍の物語にある程度尺が割かれているのは、端的によいことだったと思います。そして、ラストライブでμ'sのこれまでの飛躍の物語を歌にして(なんかそういうふうに聞こえた)、大団円を迎える。爽やかな余韻が残る。
ああ、素晴らしい飛躍の物語。

文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門で「まどマギ」「たまこラブストーリー」がそれぞれ、何かの賞を受賞していました。どちらも作品のモチーフに実存哲学臭が充満しているような印象を受けました。個人的には、そういう作品は大好きです(笑)

劇場版での穂乃果の飛躍の物語が「実存哲学的飛躍」の体をなしているのは、もしかしたらそのへんの影響があるのかもしれないと勝手に推測します。
Posted by at 2015年06月26日 14:48
 
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投稿したコメントは以上です。そろそろ、まとめに入ります。 
 
ラブライブ!」が好きな理由・・・卑近な話で恐縮ですが、今の自分自身が実際に「ラブライブ!」の楽曲から元気をもらっていることもあって、様々なコンテンツが存在する中で、どうして「ラブライブ!」なのか?と聞かれれば、まずは、そのように答えるでしょう。
 
今までの人生の中で、音楽も様々なジャンルのものを聴いてきたわけですが、個人的な趣味では電子音楽が大好きなのですが、それはともかく、「元気な気持ちにしてくれる」類の音楽では、今まで聴いてきた曲の中では、μ'sの曲が一番ストレートに伝わってきた、心の琴線に触れた、そんな感じです。
 
どこかのメディアから、たまたま入って来て偶然に知ったとはいえ、それが今の自分の空気に大変に合ったものだったので、偶然が運命に変わるような体験となった。
これは言い過ぎでしょうか(笑) 
 
終戦直後の、廃墟や闇市や傷痍軍人などが登場する東京のモノクロ映像に合わせて、「リンゴの唄」の歌が流れている。
戦争で疲弊して悲嘆にくれる民衆にとって、「リンゴの唄」は希望と慰めの象徴であったという。
 
そこまで大きな話とは言わないまでも、先の見えない社会、また、今の私的な境遇から、不安の絶えない人生から、μ'sの歌声は一条の光明たり得た、そういうわけです。
 
そういう経緯が影響してるのかどうか定かではありませんが、映画を観に行く3日前くらいに「キラセンの衣装はスタダの衣装のオマージュなんですよ」という情報を得て、たぶんそっちの影響が大きいと思うのですが、劇場版での最後のライブシーン「僕たちはひとつの光」には感極まるものがありました。
 
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結論に移ります。ここでの持論は、アニメで展開されるストーリーは楽曲のメッセージを反映したものだと、そういう前提に立っていて、また各々のキャラクターが飛躍を遂げるエピソードから察するに、個人的には、アニメの「ラブライブ!」には、ちゃんとした主題があるし、ゆえに明確な物語がある、と断言するわけです。
 
楽曲で盛り上がれないことにはアニメでも盛り上がれない。「ラブライブ!」を素直に楽しむためには、まずこの点を押さえておくべきでしょう。「ラブライブ!」の魅力は、楽曲の占める部分が非常に大きく、謎解きパズルのような奇抜なストーリーと深遠な物語性で観る者を魅了する「まどマギ」と同じ視点で見ると、かえって興ざめしかねないから、ここは要注意でしょう。
 
これは見る側のスタンスの問題ですが、劇場版も含めて、アニメの各エピソードについては、最高品質とは言わないまでも、自分の思い入れを排除する努力をして虚心坦懐に作品と接すれば、そっちの方が観ていて普通に面白いし、感動できるところもあるのではないか、そのように思います。
 
また、これは「自分の思いれ」とは似て非なるものなので、区別しておく必要があるのですが、自分の実体験とリンクできた作品は本当に面白いし、運がよければ本当に感動できる作品に出会えるでしょう。作品がカタルシスになる時です。
 
価値を発見するのは自分自身、発見を阻害するのも自分自身、これはスタンスの違いでも変化してくる。そういうことなのでしょう。
 
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ここでは、“アニメ「ラブライブ!」に物語性はあるのか?” をネタに、個人的主観的な経験を頼りに長々と持論を展開して、「ある」と結論しました。
 
逆に言うと、事実をかなり歪めて力づくで捻じ伏せない限り「ない」と結論できないのではないか? 
 
ここで出てきた「事実を歪めて力づくで捻じ伏せる」という行為は、人間の自由と尊厳に関わることでもあって、こういう議論がいかにも正義かのように振る舞うと、これに拒絶反応を起こす人はたくさんいるわけです。自由のための闘いを起こす人たちもいる。これは一般論を超えて、人間の普遍的な真理、生命の真理でもあります。
平和を希求しながらも、なぜか戦争が絶えない、その一因でもあるでしょう。
 
こんなことを語りだすとまた話が長くなるので、この話はこのくらいにして、
本論の「ラブライブ!」の話に戻ると、おりあそ氏には大変感謝しています。
ラブライブ!」について、ぐだぐだ延々と語ってみたいと思っても、ブログ開設するのは面倒くさい。Twitterでぽつぽつとつぶやくくらいで、殊に劇場版については、こういう場でも設けなければ、なかなか存分に語れない。
 
おりあそ氏のブログ記事が、その燻った空気を変えてくれました。
実際今の感想は、「テキスト起こすだけだったら、ブログって簡単に作れるのね!」そんな気持ちです。それはともかく、氏のブログ記事の内容にはやはり賛同しないわけですが、それよりも大事なのは、目の付けどころが良かったと思います。
氏の展開する議論に沿って自分なりの意見を用意しているうちに、コメント欄のまともな意見を目にしているうちに、アニメのエピソードなどを回想するなどしているうちに、いつの間にか、自分なりの「ラブライブ!」愛を語ることになりました。
愛のカタルシスになりました(笑)
 
おりあそ氏と、氏の記事のコメント欄にまともな意見を投稿された皆さん、
いろいろと知識や霊感を授けてくださいまして、ありがとうございます!
 
                                                                                                               (おわり)